※この文章は、「『では無く』『する様に』『した時』『と言う事だ』『と言う物ではない』・・・・・・(前篇)」の続きです。
私にとり、手書きでの執筆は、文字遣いのよい勉強になりました。この時期に、漢字の使用を制限するようになったからです。現在から振り返ると、パソコンで執筆された博士論文は、明らかに漢字が多すぎます。
パソコンやスマホを含め、文字の電子的な入力では、漢字の使用を抑制し、漢字、平仮名、片仮名のあいだに日本語表記としての自然なバランスを作り出す能力は、文章を書いてきた経験、特に手で文章を書いてきた経験によって形作られるものであると言うことができます。戦前については事情が少し異なりますが、21世紀の文章の場合、「・・・・・・では無く」「・・・・・・する様に」「・・・・・・した時」「・・・・・・と言う事だ」などの表記は、筆者が文章について完全な素人であることを読者に教える標識となります。文章を書き慣れている人なら、漢字を避けて時間と体力を節約するはずのところで、漢字をあえて使っているからです1 。
文章を書くことに慣れるとともに、漢字の使用が少なくなり、平仮名の使用が増えて行きます。「この表記で読み手が正しく発音することができるか」という観点から文字面を見直し、漢字を平仮名に開いたり、送り仮名を工夫したりするようになるのです。
しかし、ネットに氾濫する文字の大半は、素人によって入力されたものです。また、その多くは、「伝わりさえすればよい」——しかし、実際には、言葉遣いや文字遣いの誤りのせいで、「伝わる」ことすらかなわない——メッセージを運ぶための格調も秩序も欠いた「文字列」にすぎません。現代の日本語の「文字空間」は、完全な無政府状態であり、上記のような記事がいくら啓蒙を試みても、これをコントロールすることはもはや不可能であるように思われます。しかし、それだけに、来るべき時代の日本語のために、文字遣いの規準は徹底的に教育されることが必要なものの1つとなるのかも知れません。
- 同じように、ワープロ普及以前なら、原稿用紙に記された文章の文字を眺めるだけで、文章を書いてきた経験の量を簡単に推測することができます。というのも、プロの作家や著述家の文字というものは、たとえ完成原稿であっても、原稿用紙のマス目の限界よりもかなり小さく、しかも、全体として丸みを帯びているからです。文字が小さく、かつ、丸いのは、もちろん、書くスピードを上げるためです。略字の使用が多いのも、同じ理由によります。実際、私自身、原稿用紙に万年筆で文章を書いていたときには、文字が次第に小さく、丸くなって行くのを経験しました。原稿用紙のマス目一杯に大きな文字を書くのは素人です。 [↩]