※この文章は、「「ロシアを悪者にすることは簡単」という意見について(前篇)」の続きです。
複雑な現実をあるがままに把握するためには、単純な対立の構図に居直ることをやめ、相手には相手の(自分とは異なる)正義があることを認めながら、複眼的に問題の解決を試みなければならないこと、このような面倒くささに耐えることが知性の証である、河瀬氏の発言の延長上には、このような認識が姿を現すことになるはずです。
実際、自分の正義や事情が絶対ではなく、相手には相手の正義と事情があることを認め、そして、複雑で不安定な布置の内部にあえて身を置き、現実を把握する地道な努力を続けることは、知性にとって重い負担となります。正義が自分の側にあることを無反省に前提し、自分と立場を異にする者に「悪」のレッテルを貼ることで私たちが「安心」するのは、これにより、現実にとどまり、現実の内部でものを考える煩わしさを免れることができるからなのです。
続いて、後半では、国家と私たちの関係が取り上げられます。前半において個人のあいだの関係について語られていたことが、今度は、社会集団のあいだの関係へと拡張されて行きます。
河瀬氏によれば、国家には、私たち1人ひとりの生存を保護する点に存在理由があります。そのため、私たちは、国家に対し、自分たちが共有する正義を外に向かって執行する役割を期待します。
けれども、この期待は、自分の国をつねに正しいものと見なし、自分の国と対立する国に「悪」のレッテルを貼り付けて安心してしまうという事態を惹き起こしかねません。もちろん、現実がこのような単純な対立の構図に収束するはずはありません。私たちは、自分が帰属する国家が掲げる正義があくまでも正義の1つにすぎないことをつねに自覚し、自分の国が「正義」の旗を掲げて他国を侵略するようなことがあれば、これに断固として反対しなければならないのです1 。
河瀬氏の発言が以上のようなものであるかぎり、その趣旨は、(ウクライナへの侵攻が決して許されない誤りであり犯罪であるという認識を超えて、)「ロシア」(カギ括弧で囲まれています)そのものに「悪」のレッテルを貼りつけることが、単純な対立の図式を複雑な現実に押しつけることであり、面倒な思考から逃れる口実以外の何ものでもない、(したがって、東大生たるもの、事柄の真相の把握が要求する重い知的負荷を逃れるために単純な対立の構図に逃げ込むようなことがあってはならない)という点に尽きます。「ロシアのウクライナへの侵攻にも理がある」などという結論が出てくる余地はまったくありません。
河瀬氏の発言をめぐりネット上で暴れ回っている人々は、冒頭に掲げた記事をめぐる単純な勘違い——何が原因であるのか私にはわかりませんが——にもとづいて何かを語っていると考えるのが自然であり、これらの人々の主張は、河瀬氏とは無関係であるように思われます。
また、このような観点から眺めるなら、たとえば次の記事は、まったくの見当外れであることがわかります。
そもそも、常識的に考えるなら、誰であれ、入学式に出席した東大の1年生に向かって「ロシアの侵略にも理がある」などという、誰が考えても頓珍漢なことを祝辞として話すはずがありません。
むしろ、話のレベルは、東大生に具わると一般に信じられている知的水準のに合わせて設定されていると考えるのが自然です。
また、この点を考慮するなら、河瀬氏の講演は、むしろ、昨年度までの来賓の祝辞とくらべ、無難ですらあったと私には思われるのです。
- 河瀬氏は直接には言及していませんが、古代から現代まで、戦争というものは、単純な利益の奪い合い、対面の維持、力くらべなどではなく、むしろ、つねに正義、真理、正統をめぐる悲惨な闘争を本質とするものでした。戦争が悲惨であるのは、当事者の双方が、自分の側にこそ正義、真理、正統性があると信じるからです。双方が正義、真理、正統の旗を降ろさないかぎり、敵とは排除されるべき悪、虚偽、異端であり、両者のあいだには譲歩の余地も妥協の可能性も生まれようがありません。相手に譲歩するとは、正義と真理と正統が悪や虚偽や異端に譲歩することを意味するからです。正義の旗のもとに行われる戦争は、つねに悲惨です。それは、一方が他方を殲滅しないかぎり終わらないものなのです。 [↩]