数年前から、「世界を変えた・・・・・・」「歴史を変えた・・・・・・」などの表現を目にすることが少なくありません。本のタイトルに含まれていることもあれば、雑誌の特集のタイトルとして用いられていることもあります。また、ある事物が特定の範囲で重要な意義を持つことを強調するために、当の事物が帰属する領域の名にこれらの表現が枕詞のように添えられることも少なくありません。
もちろん、「世界を変えた・・・・・・」「歴史を変えた・・・・・・」などの表現は、それ自体としては、最近になって使われるようになったものではなく、非常に昔から知られていたはずです。前に取り上げた特殊今日的な隠語としての「教養としての」とは異なり、「世界を変えた・・・・・・」「歴史を変えた・・・・・・」には特殊な意味はありません。これらは、今も昔も、事柄の特別な意義を強調するごく普通の表現です。
ただ、普通の表現であるとは言っても、「世界を変えた・・・・・・」も「歴史を変えた・・・・・・」も、最上級の強い表現であることは確かです。強い表現が多用されるほど、意味のインフレーションが発生し、その効果が失われて行きます。たとえば、これらの表現を表題に含む書物を見かけるのが数年に1回なら、誰でも、「『歴史を変えた』という修飾語がつくほど重要なことが主題的に取り上げられているのか」と思うでしょう。思うだけではなく、そお本を実際に手にとる人も少なくないでしょう。しかし、このような強い表現に毎月のように出会うようになると、「世界を変えた」「歴史を変えた」などの修飾語はすぐに飽きられ、そして、目に入った瞬間に読み飛ばされてしまいます。例の「教養としての」が一種の「異化効果」によって生き残っているのとは異なり、「世界を変えた」「歴史を変えた」は、現在では、単なる無駄な6文字に成り下がっているように見えます。
そもそも、「世界を変えた」「歴史を変えた」などの修飾語が与えられるほどのものなら、その影響は全世界に及ぶものであるはずです。しかし、この意味において世界を変えたり歴史を変えたりしたモノや出来事がそれほどたくさんあるはずはありません。ごく少数であり、「稀少性」があるからこそ、人々が注意を向け、また、知るに値することであるに違いないと予測するのです。したがって、「世界を変えた」「歴史を変えた」などの表現を繰り返し目にすることは、100個限定で製造され、1個1000万円で販売されたはずの珍しい機械式腕時計をネットオークションで大量に、そして毎日見かけるのと同じようなものであり、「世界を変えた・・・・・・」「歴史を変えた・・・・・・」は、無価値と見なされるばかりではなく、否定的な印象を与える危険すらあります。
「世界を変えた・・・・・・」「歴史を変えた・・・・・・」などの修飾語を使うことは、語彙力とアイディアの欠如の反映と見なされなければならないように私には思われます。