9月27日(火)に安倍元総理大臣の国葬が行われます。国葬の実施については、国民のあいだに賛成と反対の両方の声があります。私の立場は、今のところ、「消極的な賛成」であり、これは、国葬の実施が公表されてから現在まで変わっていません。
そもそも、国葬の実施に反対する怒声や罵声は耳を聾するばかりですが、反対に何か合理的な根拠があるとしても、こちらの方は、反対の声が大きすぎるせいか、私の耳には聞こえてきません。国葬に反対する理由を合理的に、丁寧に、敵対的ではない仕方で包括的に説明してくれる人が誰かいればよいのですが。私が国葬の実施に消極的に賛成しているのは、意見を変える機会がなかったからにすぎないということになりそうです。
しかし、本当に重要なのは、国葬の実施に賛成であるのか、それとも反対であるのか、そして、その理由は何であるのか、という点ではありません。国葬に話を限定して賛成/反対を論じても、合意を形成するのは不可能です。このような試みには、「言いたいことを言った」という自己満足とアリバイ作り以上の意味はないと私は考えています1 。
むしろ、まず問われなければならないのは、次の点、つまり、「過去10年間のわが国の変化について、これほど評価が分かれるのはなぜなのか、そして、評価の対立がなぜこれほど先鋭化するのか」という点です。この問いに対する答えを一致させないまま国葬の是非を問うなどナンセンスでしょう。以下、具体的に説明します。
(1)安倍政権を——消極的であるとしても——支持し、そして、安倍元総理大臣の国葬の実施に賛成する人々((両者は完全に一致しているわけではありませんが、この問題はここでは措きます。))は、安倍政権および菅政権の約10年のあいだに、わが国が全体としてよい方向に変化してきたと考え、変化を肯定的に評価している人々であると見なして差し支えないでしょう。
(2)これに対し、安倍政権を支持せず、国葬の実施にも反対する人々というのは、同じ約10年のあいだに、日本の社会が悪い方向へ変化したという実感を持っており、その責任が安倍政権と自由民主党にあると考えているに違いありません。
(3)確認しておかなければならないのは、安倍政権および自民党の政策を——消極的であるとしても——一応支持し、また、過去10年間に日本が好ましい方向へと変化してきたと判断する国民が多数派を占めてきたという事実です。選挙で自民党が勝ち続けたことの意味は、これ以外にはありえません。
(4)もちろん、これが事実であるとしても、「安倍のせいで日本は悪くなった」と感じている少数派の声を無視してもかまわないわけではありませんが、このような少数派を救済したり、少数派に迎合したりすることにより問題が解決するわけではありません。
- 私が知るかぎりでは、賛成/反対のそれぞれの理由となるすべての論点について、その反論が示され、両者の立場は完全な平行線を辿っています。これから述べるように、誰もが考えなければならないのは、国葬の是非ではなく、国葬に関しこのような平行線が解消されない理由の方です。言うまでもないことですが、「相手が自分の意見に同意しないのは、相手がバカだから」と決めつけることだけは許されません。このように決めつける者の発言に耳を傾けることは、単なる時間の無駄です。 [↩]