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「愛読書」を持たないことについて

by 清水真木

 私には「愛読書」というものがありません。過去に時間をかけて読んだ本や、繰り返しを目を通した本は少なくありませんが、いずれも世間において「愛読書」と呼ばれるような書物の条件を満たしてはいないように思われます。

 「愛読書」というのは、それなりに長期間にわたり繰り返し読まれるばかりではなく、書棚に置いて眺めるだけでも、慰められたり励まされたりするような書物を指すのが普通です。

 残念ながら、私自身は、これまでの50年近い読書生活において、このような書物に出会ったことがありません。過去のある時期に熱中した著者は何人もいます。このような著者については、すべての作品に目を通したばかりではなく、関連する文献を集めて「研究」したこともあります。

 また、ふと思い出してときどき読み返す書物もあります。ただ、特に文学作品の場合、最初に読んだときに面白いと感じられても、再読して面白くなければ、さらにもう1度手に取ることはまずありません。(反対に、最初に読んだときにはどこが面白いのかサッパリわからない本でも、時間をおいて再読して面白さに気づくことがあります。)このような試練を経て、それでも手もとに残り、最近30年近くのあいだに何回か読み返す機会があった作品は、私の場合、今のところジェイン・オースティンの6つの長篇小説だけです。

 しかし、オースティンの小説には——読むたびに新たな発見があることは事実であるとしても——本棚に立ててその背中を眺めることで気分が落ち着く、などという効果はありません。私の場合——本の内容を完全に忘れていないかぎり——1回読んだ本の背中を眺めていると落ち着かない気分になります。したがって、オースティンの作品も、読み終わるたびに書庫に放り込んで視界から消去してしまいます。読んだ本が目の前にいつまでもあると落ち着かないのは、読んだはずの本の内容が記憶から失われて行くことに耐えられないからであると勝手に解釈しています。オースティンの作品を繰り返し読むのも、オースティンが好きであるからというよりも、むしろ、たがいに似たようなストーリーの細部——どの作品も「若い女性が『いい感じ』で結婚する話」であるという点では同じです——を記憶にとどめておかなければならないという強迫観念のようなもののせいかも知れません。

 おそらく、私は、本をたくさん読みますが、いわゆる「愛書家」(←ブツとしての本が好きな人)や「読書家」(←本を読むことが好きな人)ではなく、読書の「沼」に落ち、今でもそこを泳ぎ続けている不幸な人間なのでしょう。

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