※この文章は、「『本は決して裏切らない』という文の意味について(前篇)」の続きです。
私が「本は決して裏切らない」という文を最初に耳にしたとき、それは、「本の字面は変化しない」という意味で語られたものでした。たしかに、本というのは、人間のように相手によって態度を変えることはなく、いつでも、どこでも、誰に対してもつねに同じ字面を提示します。また、近代以降、本というのは、大量に複製されるのが普通ですから、同時に発行された同じ書物なら、誰の手もとにあるものでも、字面に違いはありません。この「相手によって態度を変えない」点を「本は決して裏切らない」ことのさしあたりの意味と見なして差し支えないように思われます。
たしかに、本の字面が変化することはなく、同じ本は、10年前に読んだときにも、そして、10年後に読むときにも、完全に同じことを語りかけてきます。この点において、本が人間よりも信頼に値することは確かです。
ただ、「本は決して裏切らない」の「裏切らない」の意味は、前に述べた「筋肉は裏切らない」の「裏切らない」とは意味が異なります。
後者の場合、「裏切らない」とは、決まった形で働きかけることにより、決まった応答を引き出すことができるという事態を表現します。これに対し、前者の場合、「裏切らない」は、私たちの側からの働きかけとは関係なく、むしろ、本の文字面が、私たちの側からの働きかけとは関係なく物理的に変化しないことを意味するにすぎません。
さらに、これまで述べてきたような意味において本が私たちを「裏切らない」としても、これは、本が私たちの意のままになることを意味しません。というのも、本のページに並べられた活字を読む側の私たちの方が、時間の経過とともに変化するからであり、そのせいで、本が発する言葉の理解もまた変化せざるをえないからです。
10年前に面白かった小説を再読することにより、新しい面白さを発見したり、かつては難しかった本が易しく感じられたりする、このような経験は、決して珍しいものではないはずです。この意味では、どのような状況のもとで読まれるかにより、本は私たちに対する態度を変えるものであり、このかぎりにおいて、「裏切る」ことがあると言うことができます。
ブツとしての本は、時間とともにその文字面を変えません。読み手によって態度を変えることもありません。この意味におて、本は、私たちを裏切りません。むしろ、本との対話の中で、私たちが成長し、そして、私たちの方が変化するのです。本に関し裏切りがあるとするなら、それは、本の裏切りではなく、私たちの裏切りであり、読書の経験において、私たちが私たち自身を裏切っているのです。
もちろん、私たちは、大抵の場合、この意味における本の裏切りを、本を読む側の私たちの「成長」として肯定的に受け止めます。かつて私たちを夢中にした本が今では退屈に感じられるとしても。