「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」、あるいはこれに類似した表現で知られる格言があります。これは、ビスマルクの次の発言に由来するもののようです。
自分の経験から何かを学ぶことができると信じているなら、諸君は愚者である。私は、むしろ、他人の誤りに学んで自分自身の誤りを避ける方を好む。(“Ihr seid alle Idioten zu glauben, aus Eurer Erfahrung etwas lernen zu können, ich ziehe es vor, aus den Fehlern anderer zu lernen, um eigene Fehler zu vermeiden.”)
私は、この格言を目にするたびに、自分のバカさ加減を繰り返し噛みしめます。外の世界を注意深く眺めることを怠ってきたせいで、賢者(=ビスマルク)のように他人の誤り(=歴史)に学ぶことができなかったばかりではなく、自分自身を振り返るとき、みずからの誤りを糧に成長してきたという自信もないからです。この点において、私は「愚者」ですらない、何ものでもない存在ということになるでしょう。
そもそも、他人の誤りから学ぶことができるためには、他人を注意深く観察すること、言い換えるなら、他人のふるまいのうちに何らかの「誤り」を見出すことができなければなりません。また、他人のふるまいのうちにある「誤り」に目をとめることが可能となるためには、回避すべき「誤り」がその都度あらかじめ漠然とわかっていることが必要となります。他人の誤りから学ぶとは、歴史あるいは他人の誤りと対話することにより、漠然とした了解を明晰判明に自覚するプロセスに他ならないのです。
しかし、私自身は、自分が誤りを犯すまで——しかも、大抵の場合、時間が相当に経過するまで——自分よりも前に誰かが同じ誤りを犯していたことに気づかないことが少なくありません。この意味において、私は愚者なのでしょう。
それでも、他人の誤り(としての歴史)を眺めてこれに学ぶことは、自分自身の誤りから何かを適切に学ぶよりは容易であると言うことができます。自分のふるまいを振り返り、そこに「誤り」を見出し、自分だけの力で、他人の評価を手がかりとすることなく自分の行動やものの見方を修正することは、自分の髪をつかんでみずからを沼から引き上げようとしたミュンヒハウゼンの試みと同じように、権利上不可能だからです。(そもそも、自分の個別の行動やものの見方を評価し普遍的なものへ統合する枠組がなければ、「経験」一般が成立しません。)
愚者が愚者であるのは、「自分の経験から学ぶ」からではありません。自分の経験から学ぶことなどできないからです。そうでなく、愚者は、他人の失敗を参照せず、「自分の経験から学ぶことができると信じる」点において愚者なのであり、冒頭の格言のもとになったビスマルクの発言は、まさにこのように理解されなければならないものなのです。