私は、自分のことを右翼であると思っています。念のために言っておくなら、私は、自分を左翼と規定したことは、生まれてから1度もありませんが、これから述べるように、自分を右翼に分類するかどうかは、問題によります。
ただ、このブログを以前から御覧の方々の中には、私のこの自己了解について、「左翼ではないのは確かだが、どう考えても右翼じゃないだろう」という感想を持つ人が少なくないかも知れません。
たしかに、世間で一般に「右翼」に分類されている人々は、政治、社会、文化、道徳などについて、意見のパッケージを共有しています。そして、今の私は、その相当部分に同意しません。私が同意するのは、典型的に右翼的な主張の半分以下でしょう。
それでも、私が現在の自分を「右翼」と規定するのには、明確な理由があります。
世の中には、右翼にも左翼にも、何十年となく、同じことを変わることなく主張し続けている人々がいます。そして、特に政治活動家や評論家の中には、「意見を決して変えない」ことをなぜか自慢する人も少なくありません。
しかし、国内でも、世界でも、私たち日本人の暮らしに影響を与えるような出来事が日々発生し、これにより、社会は、少しずつ、しかし、否応なく変化し続けます。それとともに、社会において最優先で解決されるべき問題、あるいは、大切に守られるべきものは、当然、少しずつ変わります。人々が共有する規範もまた、不変というわけではありません。
私たちは誰でも、社会の動きに巻き込まれています。そして、残念ながら、この動きは、たえず、そして、予測することも説明することもできないような仕方で方向を変えます。このような晴れ晴れしない環境の中で、ただひとり、このような変化から距てられた高みに身を置き、そして、社会が見苦しく形を変えるのを超然と見下ろし、同じことを叫び続けるなど、誰にとっても不可能なのです。
私自身は、社会の変化に合わせ、自分の立場を積極的に変えてきました。シーソーのバランスを維持するため、左寄りの意見が社会において優勢になりつつあると感じられたら、右寄りへと移動して社会を批判的に眺め、変化の向きが変わったら、これに応じて立場を変えることにしています。私自身は、「右翼」や「左翼」が共有する意見のパッケージには拘束されず、個別の出来事について、個別に自由に判断することにしています。しかし、みずからが社会のメンバーの1人であるという自覚があるかぎり、これは当然のことであり、「・・・・・・一筋50年」「立場を変えたことはない」などとうそぶく人々の方が、むしろ、「固定観念」に囚われているように思われます。
現実を前にして意見を変えられるというのは、1つの積極的な能力であり、現実から学び、成長する余地があることの証でもあります。「・・・・・・一筋50年」「立場を変えたことがない」などと自慢し、ものごとを現実的に判断する人々を「変節」「転向」などと非難することにより、このような人々は、自分が成長をやめた「主張する機械」にすぎないこと、そして、何よりも、その存在自体が不誠実であることを告白している、私にはこのように思われるのです。
2022年8月現在、私は「右翼」です。これは、現在のわが国の社会が、短期的には「左」方向に傾斜しているという了解の反映です。しかし、ことによると、来月には、何か大きな出来事があり、立場を変えることになるかも知れません。