今から1ヶ月ほど前、次の記事を読みました。
現在では、子どもを乗せたままのベビーカーを押して路線バスに乗車することは、(一度に乗せられるベビーカーの数に制限はあるものの、)ルールによって認められているのが普通です。したがって、この事件では、ベビーカーを畳むよう女性の乗客に乱暴に要求し罵詈雑言を発した男性の方に全面的な非があります。女性の行動には、それ自体としては何の瑕疵もありません。これは、誰が考えても明らかでしょう。
ただ、ルールで認められているからと言って、何をしてもかまわないわけではありません。「ベビーカーを畳んでくれ」と要求する権利は、それ自体としては誰にでも認められています。
たとえば、私の自宅を走る関東バスの場合、車内の通路が特別に狭く、そのため、通路に大きなスーツケースやベビーカーがあると、車内が混雑していなくても、老人や目の不自由な乗客は、これに躓く危険があります1 。私自身は、バスの車内でベビーカーを畳むよう他の乗客に求めたことは一度もありませんが、通路に置かれた他の乗客のスーツケースに躓き、これを思い切り蹴とばしてしまったことは何回かあります。(幸いなことに、ベビーカーを蹴飛ばしたことはありません。)
ベビーカーに子どもを乗せたまま乗車するのは、乗客の権利ですから、ベビーカーを畳むよう求めるなら、事情を丁寧に説明し、礼儀正しくお願いすることは避けられません。しかし、お願いしてはいけないわけではないのです。(本当の問題は、ベビーカーを畳むことを求める乗客ではなく、このような手間を省略する乗客であるはずです。)
同じように、誰かからベビーカーを畳むよう求められたら、「ルールで私に認められた権利を放棄するよう求めている以上、何らかのやむをえない事情があるに違いない」と想像することは、求められた側の乗客の責務であるはずです。(もちろん、求められたらベビーカーを必ず畳まなければならないわけではありません。)ただ、「相手の事情に関係なく、ルールで認められている権利は決して放棄しない」という態度は、現実の社会生活では決して普通ではないはずです。
あまりにも平凡な結論になりますが、社会生活においてトラブルを未然に防ぐためには、「礼儀正しい対話」が不可欠です。自分との接点を持たない見ず知らずの相手とのあいだで「礼儀正しい対話」を成立させる能力が言葉の本来の意味における「コミュニケーション能力」に他ならない((コミュニケーション能力というのは、自分をアピールする能力でもなければ、集団の内部でたくみに遊泳する能力でもありません。))とするなら、コミュニケーション能力は、万人に必須であるに違いありません。
- 関東バスの車両の大半は、車幅が2.3メートルしかなく、そのせいで、通路がとても狭くなっています。吊り革につかまった2人の大人が背中合わせに立つと、もはやそのあいだを通り抜けることができません。 [↩]