※この文章は、「『進歩的』な常識にあからさまに異議申し立てすると、上から目線で『コロナで心の余裕を失ったかわいそうな人たち』に否応なく分類され、対話の相手ではなく、同情や治療や懲罰の対象にされてしまう(危険がある)残念な社会について(その1)」および「『進歩的』な常識にあからさまに異議申し立てすると、上から目線で『コロナで心の余裕を失ったかわいそうな人たち』に否応なく分類され、対話の相手ではなく、同情や治療や懲罰の対象にされてしまう(危険がある)残念な社会について(その2)」の続きです。
しかし、形式的に考えるなら、ベビーカーを畳むことを強く求める人々に対し「子育てに理解がない」「コロナで余裕がない」などのレッテルを安心して貼るのは、「子育ての意味を本当に理解し、心の余裕を取り戻せば、ベビーカーを畳むよう求めるなどということはしなくなるはずだ」という確信があるからです。(もちろん、この確信には、さしあたり何の根拠もありません。)真理は自分たちの側にある、この真理に同意しない者は、その意見に耳を傾けるべき相手ではなく、ただ、理解力と気分的余裕が不十分な者たちであるにすぎない・・・・・・、このように考えられていることになりますが、これは、途方もなく傲慢な態度であるように思われます。
また、自分の意見に一切の疑念を抱かず、その真理を確信するとき、私たちは、「狂信」まであと一歩のところに身を置き、そして、大抵の場合、単純な純粋な狂信へと転落して行きます。
狂信に陥った人々は、もはや他の意見に耳を傾けることなく、「真理/虚偽」「正義/不正」「正統/異端」などの単純きわまる二分法に囚われます。自分と意見を異にする人々は、もはや対話の相手などではなく、ただ「治療」や「懲罰」や「教育」を必要とする人々、同情すべき人々となり、上から目線で眺められるだけなのです。この意味において、「不寛容」という紋切り型を振り回す者は、みずからが傲慢であり狭量であり不寛容であるばかりではなく、思考停止に陥っており、また、ときには「狂信」にすら囚われていることになります。
このような事態については、以前、次の文章で欠いたとおりです。
たしかに、子どもは大切にされるべきであり、子育ては社会全体の協力のもとで行われるべきです。私自身、この点に何の異議もありません。けれども、これらは、一切の制限を受け容れない「定言命法」ではなく、現実の社会生活の文脈の内部において、さまざまな事情や状況とのせめぎ合いの中で、柔軟に受け止められ、実現のために努力されるべきものであると私は考えています。
私たちとともに社会を形作っている人々の大多数は、子どもが大切にされるべきであり、子育てが社会全体の協力のもとで行われるべきという主張に原則的に同意するはずです。この意味において、これは、社会の広い範囲において共有された常識です。
しかし、子どもと子育てをつねにすべてに優先させることがつねに適当であるわけではありません。むしろ、一般的な常識と自分の個別の事情を具体的な状況のもとでその都度衡量し、「ベビーカーを畳んでもらいたい」と求めたり、乳幼児を連れた乗客に席を譲らなかったりする場合があるのは自然であり、また、これは、まったく常識的な行動として受け容れられるべきものであるはずなのです。子育てに関する進歩的な常識に対し——個別の状況において——制限を加えようとする人々は、本来は、よりよい社会を作るための生産的な対話の相手なのであり、これらの人々は、「コロナで心の余裕を失ったかわいそうな人たち」扱いされてはならない、それは、言葉の本来の意味における不寛容と狂信への道であると私は考えています。