21世紀前半の現在、いわゆる「教養教育」というのは、大学関係者からも、学生からも、そして世間からも、不当に軽く見られています。大学設置基準の大綱化以降、時間の経過とともに、いずれの大学においても、教養教育に相当するものからは、その重みが少しずつ奪われてきました。何の対策も講じなければ、教養教育は、将来において、その存在感をさらに低下させて行くに違いありません。
しかし、私は、高等教育を形作る領域のうち、教養教育というものは、もっとも丁寧に扱われ、もっとも尊重されるべき部分であると考えています。
というのも、わが国の大学において教養教育が今以上に軽んじられて痩せ細ると、日本の人文科学(=哲史文)は全体として、研究水準を維持することができなくなり、わが国は、文化的な意味における「後進国」に転落するおそれがあるからです。
国立大学の文系学部の廃止について
数年前、国立大学の文系学部を廃止することが政府の内部で検討されていることが明らかになり、大学関係者のあいだで大変な騒ぎが起こりました。
たしかに、国立大学から文系学部がすべてなくなると、大都市圏を除く日本の地方は、基礎的な人文科学、社会科学の研究と教育に関し、「不毛の大地」となります。研究者の数が全体として少なくなるばかりではありません。国立大学にしか設置されていない特殊な専攻がなくなると、研究者は居場所を失い、当該分野の研究について、わが国は世界の中でその位置を失うことになります。長期的に見るなら、国立大学の文系学部の廃止は、わが国の文化に対し無視することのできないダメージを与えるでしょう。
ただ、国立大学の学生の収容定員のうち、文系学部の学生が占めるのは平均して4分の1か、せいぜい3分の1程度にすぎません。国立大学の学生の圧倒的多数は理系学部の所属であり、国立大学というのは、東京大学や一橋大学を特殊な例外とするなら、基本的に「文系の学部『も』ある理系の大学」にすぎません。国立大学の文系学部をすべて廃止しても、少なくとも短期的には、弊害が誰の目にも明らかになることはないはずです。
人文科学の尊重は、文化的先進国であることのメルクマール
むしろ、文化に与えるダメージという点では、国立大学の文系学部廃止よりも教養教育の軽視あるいは消滅の方が、はるかに深刻であると私は考えています。
人文科学に割り当てられる予算の規模、研究者の数、文化的な裾野の広がりなどは、ある国が文化的な先進国であるかどうかの目印になります。
世界のどの国においても、高等教育に対する政府の予算配分は、つねに圧倒的な「理系偏重」です。この趨勢が変わることはないでしょう。当然、人文科学、社会科学、自然科学の3分野のうち、「役に立たない」人文科学は、予算削減のもっとも強い圧力につねにさらされてきました。(全4回の2に続く)