初対面の人たちは、たがいに自己紹介を行うのが普通です。初めて会う他人が目の前にいるにもかかわらず、また、自分をその他人に紹介してくれるような第三者が不在であるにもかかわらず、自分のことを一切紹介しない——つまり、自分の名前すら言わない——人がいるとしたら、それは、逃亡中の犯罪者でなければ、よほど失敬な人であるに違いありません。
ところで、自己紹介の形式や内容は、状況や相手により区々であるに違いありません。それでも、私たちが自己紹介という形式を借りて相手に何かを語りかけるときに心がけなければならないことは、いかなる場合でも同一です。自己紹介とは、自分で自分を紹介すること(self-introduction)であるかぎり、その内容は、「自分を紹介する相手の目にどのような存在として映りたいか」という観点から決められなければならないのです。
誰が相手でも使える自己紹介のテンプレートなどというものはありません。これから私が参入する人間関係や組織の性質、この人間関係や組織において私が占めることを望む位置などにより、私が語る内容は変化するものだからです。実際、自己紹介の場面において、私たちは——大抵の場合は不知不識に——目の前にいる初対面の他人の様子を見ながら、相手が聴きたいであろうこと、つまり、言葉のもっとも広い意味において「うける」話をその都度選んでいるはずなのです。
むしろ、誰に対しても自分を同じように紹介するとは、目の前にいる相手の一人ひとりに対し、「俺にとってお前なんかどうでもいい奴なんだよ」と言うのと同じです。状況に関係なく自分自身を誰に対しても同じように紹介するとは、したがって、誰に対しても自分を紹介しないことであり、「自分の紹介」ではなく「他人の拒絶」に他なりません。
以前、少人数の授業において、1人ひとりの学生に教室で自己紹介させる機会が何回かありました。放っておくと、学生は、自分の氏名、出身地、出身高校、趣味などの個人情報を漫然と開陳し、最後に「よろしくお願いします」などと言って30秒ほどで「自己紹介」を切り上げようとします。また、複数の学生に順番に自己紹介させる場合、同調圧力が働き、個人情報を開陳するテンプレートとは異なる仕方で語ることが困難になるようです。これは、話す学生にとって苦痛であるばかりではなく、聴いている方にとってもまた、何の印象も残さない退屈なものになるはずです。誰に対して向けられたものでもない空虚な言葉を聞かされるわけですから、これは当然でしょう1 。
個人情報の開陳を内容とするいわゆる「自己紹介」は、消極的なアリバイ作りにすぎず、人間関係を築くきっかけとはなりません。むしろ、個人情報の漫然とした開陳を「自己紹介」として受け入れることは、時間の無駄であるばかりではなく、他人に対する拒絶と無関心を間接的に表明することであり、この意味において有害ですらあります。
けれども、自己紹介というのは、本質的に自分のアピールであり、その効果の測定が容易なものであるはずです。「自己紹介」の名のもとで個人情報をダラダラと開陳しなければならないののなら、何も語らず沈黙していた方がよほど好ましいと私は考えています。
- もちろん、学生たちは、たがいに一対一で自己紹介するときには、個人情報をメリハリなく開陳するのではなく、自己紹介の本来の趣旨にふさわしく、相手に合わせてうける話を選んでいます。学生が教室での自己紹介を個人情報の開陳で済ませようとするのは、学生に対してではなく、私に対し「俺にとってお前なんかどうでもいい奴なんだよ」と伝えるためであるのかも知れません。 [↩]