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ブロゴスフィアとは何だったのか(中篇)

by 清水真木

※この文章は、「ブロゴスフィアとは何だったのか(前篇)」の続きです。

遅れてきた存在としての私

 私がブログを開設したのは、ブログについては、これを「書く人」も「読む人」も少なくなった時期、ブログに積極的で生産的な「何か」を期待する人口がゼロにかぎりなく近くなった時期です。

 当然、私は、このような状況のもとで、ブログを開設したときから、ブログを続けることの大きな障碍に逢着しました。この障碍は、現在でもなお障碍であり、克服を待っているものです。すなわち、私と似た関心にもとづいて文章をそれなりの頻度で公開し続けているブロガー、私にとって模範にもなり、刺戟にもなるようなブロガーが私の探索が及ぶ範囲にはいなかったのです。私は、言葉の文字どおりの意味において「暗中模索」の状態においてブログを始め、現在でも「暗中模索」を続けています。

 その結果、このブログが——もともと、「巨大な自己紹介」のつもりではあったのですが——上の記事の筆者の言葉を借りるなら、今では、誰にも読まれない「長すぎる遺書」のようなものになってしまっているような気がしないことはありません。

ブログを開設した「きっかけ」

 ところで、私がブログを開設したのには、「きっかけ」と「動機」があります。そもそも、ブログの開設を思いついたのは、141文字以上書きたかったからです。言い換えるなら、言いたいことを、それなりの文字数を費やして丁寧に説明したいと考えたからです。これは、前に述べたとおりです。(下に続く)

 また、現在の平均的なネットユーザーは、個人のブログに辿りつき、その内容を確認するのに必要な手間には耐えられないであろうと予想しました。そして、「手間」をバリアとして利用することにより、「炎上」を防ぐことができることを期待しました。

 たしかに、これまでのところ、私が公開した文章のどれ1つとして「バズ」ることはなく、「炎上」することもありませんでした1 。私自身は、上の記事の筆者とは異なり、ブログの「黄金時代」を知りません。したがって、私がこのブログに公開した文章が読まれているのかどうかを判定するための比較の対象を持ちません。それでも、少なくとも今は、ブログが「安全」なメディアであることは間違いないように思われます。(後篇に続く)

  1. 「手間のかかるインターネット」のうちにインターネットの未来があるのではないかと私は考えています。(ひそかに考えているのではなく、次の文章においてこの点をしつこく主張しています。)(下に続く)

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