※この文章は、「公共の交通機関はどのような意味において『公共』であるのか(前篇)」の続きです。
2021年4月に改正バリアフリー法が施行されました。この法律は、老人や障害者など1 の移動を円滑にするために駅のバリアフリー化を促進することを義務あるいは努力義務として定めています。たしかに、移動に多くのコストを必要とするこのような乗客に対する配慮には、無視することができない意義があります。
ただ、老人や障害者などに対する配慮、つまり、移動に関する「バリアフリー」に対し有限な資源を優先的に割り当てることについては、社会の合意があるとしても、この「優先権」は絶対的なものではなく、資源全体の公平な配分の原則によって制約を受けるべきもの、したがって、相対的なものであるはずです。形式的に考えるなら、優先権を与えられた乗客は、他の乗客の移動に支障を来す可能性があるような形での資源の独占を避けるよう心がけ、この点を考慮しながら優先権を行使する責務を負うことになります。
移動に車椅子の使用が必須の障害者が、バリアフリー化されていない無人駅を、当の駅が無人駅であることをあらかじめ承知していながら利用しようとするのなら、———乗車前と下車後のそれぞれのスケジュールが厳密に決まっているのならなおのこと——法律には関係なく、他のスケジュールを決めるのと同時に、駅を管轄する事業者に事前に相談するのが適当です。障害者にとっては、(鉄道事業者が法律に忠実であるかどうかを検査することではなく、)ストレスのない移動が優先課題となるはずだからです。
事前の相談がないまま、無人駅の利用を当日になって要求するというのは、相当な量の人的リソースを本来の業務から急にむしり取ることを意味します。このような行動が、各種の法律2 を盾にとり、「法律があるのだから自分が要求するリソースがすべて提供されて当然」であるという判断にもとづくものであるなら、これは、公共交通機関の公共性の意味をめぐる誤解の反映と見なされなければならないでしょう。
これは、公共交通機関の使用に関する暗黙の共通了解とは相容れないふるまいであると私は個人的に考えています。