しばらく前、次の記事を読みました。
この記事において言及されている別の記事、さらに、その別の記事が取り上げる本ではいずれも、組織の内部における悪が生産性との関係において主題化されます。
もとの本の著者は、他人に対する失礼な態度が組織における生産性を低下されるがゆえに悪であることを強調しているようです。(ただ、もとの本を読んでいないため、確定的なことは言えません。)
これに反し、上の記事が言及する別の記事によれば、組織における悪——パワハラのような言動を想定しているようです——には生産性を向上させる点で効用が認められること、したがって、組織における悪にはそれなりの意義があり、十分に尊重されるべきである、それどころか、悪が悪であることを知りながらこれに加担することが組織にとって望ましい場合すらある、というようなことを主張しています。
この問題に関し、上に掲げた記事の筆者は、悪である点において疑問の余地がないものが悪であるという点に留保をつけてはならず、いかなる効用があろうとも容認してはならないことを主張します。まったくそのとおりであると思います。
そもそも、もとの本の著者は、組織の内部における失礼な態度を生産性との関係において斥け、これを取り上げた別の記事の筆者は、同じ悪が生産性を向上させるという理由によってこれを擁護します。両者はともに、善悪の基準を生産性の問題、つまり「功利性」(utlility) の問題に還元していることになります。
善悪を功利性に還元することは、善悪には自立した価値を認めず、むしろ、善悪は損得の帰結、あるいは、「善/悪」とは「得/損」の言い換えにすぎないと主張することを意味します。この場合、道徳的な問題に関するかぎり、功利性以上の審級は一切認められないことになります。
これは、ベンサム流の古典的かつ原始的な功利主義以外の何ものでもありませんが、道徳にかかわる多少なりとも哲学な議論では、善悪を何か非道徳的なものに還元する——損得ではなく「腕力」に還元することもできないことはありません——論法は、それ自体が問題と見なされます。