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新しく再開発された街を歩いていると、ときどき、ある種の居心地の悪さを覚えます。
街全体のよそよそしさは、居心地の悪さの原因の1つであるかも知れません。実際、ある地域の再開発というのは、単純な区画整理などではなく、むしろ、その地域に新たな要素を導入し、新たな役割を与えることを目的とするものであるのが普通です。
ところが、再開発された地域に与えられた新しい役割は、大抵の場合、私の現在の個人的な——いわば半径5メートル以内の——生活とは何の関係もありません。再開発された地域に建てられた非人間的なデザインの建物1 が林立する——地域に新たに生まれた建物のどれを眺めても、何か具体的な用件でここに立ち入る機会が今後の人生において訪れるようには思われないのです。
東京の場合、再開発の対象となる地域は、23区の東半分に集中しています。私は、東京に生まれ、東京に育ち、現在も東京に暮らしています。また、清水家は、遅くとも江戸に幕府が開かれて以降、江戸(および東京)以外の場所に生活の拠点を移したことがありません。それでも、東京都内、特にその東半分は、私にとっては未知の「暗黒大陸」になりつつあります。
- ある建物が人間的に見えるかどうかは、建物全体のサイズではなく、空間を区切る「尺度」に依存するように思われます。都心にある高層のオフィスビルの1階は、天井がとても高く、また、フロア全体が1つのホールとして設計されていることが少なくありません。ビルの設計者は、「開放的」な空間を作るつもりであったのかも知れませんし、たしかに、サイズの点では、非常に大きな空間が広がっています。しかし、このような空間は、大抵の場合、ビルを初めて訪れる者にとっては、「開放感の押しつけ」にしかならないような気がします。(私は広場恐怖症ではありません。)というのも、同じ面積、同じ天井高の空間でも、何の区切りもない場合と、適切に、具体的に言うなら、人間の身体のサイズに合わせて区切られている場合では、受け止められ方がまったく異なるはずだからです。古代の建築物に圧迫感を与えるものが少ないとするなら、その大きな原因は、垂直方向に目を向けたとき、水平方向に素材の「継ぎ目」が適切な間隔で通っているからであるに違いありません。これに対し、中世に建設された巨大なカテドラルが必ずしも開放的に感じられないのは、垂直方向の視線を区切るものが明瞭には見えないからであると考えることができます。もっとも、ゴチック様式の教会の内部が人工的な「森」として設計されていることを考慮するなら、空間が明るく人間的であることは、かえって好ましくないのかも知れません。 [↩]