社会科学や自然科学の場合はよくわかりませんが、少なくとも人文科学、特に哲学の場合、古典的なテクストを原語でゆっくりと読むことには、無視することのできない意義があります。(文学についても、事情は同じであるはずです。)また、これは、意義のある作業であるばかりではなく、大変に楽しい作業でもあります。
翻訳の訳文というのは、もとのテクストをめぐる訳者の解釈であり、翻訳を読むことは、訳者の解釈の解釈に当たります。訳者がどれほど親切で丁寧であるとしても、翻訳の読者は、すべての訳文に含まれるすべての訳語を訳者の意図とは異なる意味に受け取り、そのせいで、テクストの内容を誤解してしまう——あるいは、理解することができず立ち往生してしまう——危険につねにさらされているのです。
もちろん、テクストを読む理由が「あらすじ」を知ることに尽きるのなら、翻訳でもかまわないでしょう。いや、誰かに解説してもらうことができるのなら、翻訳を手に取ることすら必要ではないかも知れません。
テクストをもとの言語で読まなければわからないのは、その細部であり、細部に隠れた著者の思索です。テクストを読むことにより、私たちは、翻訳を読むかぎり気づかずに通り過ぎてしまうような小さな挿入句、不自然な接続詞、不要に見える留保などのもとに否応なく立ち止まります。そして、まさにそこにその言葉が記されている——あるいは、反対に、あるはずの言葉がそこにない——ことの必然性を納得するまで問うことになります。テクストの対するこの問いかけこそ、本を読みながら考えることであり、著者と「対話」することでもあります。この楽しを翻訳で味わうことは難しいように思われます。
「親愛なる神は細部に宿る」(“Der liebe Gott steckt im Detail.”) というのは、アビ・ヴァールブルクの有名な言葉です。そして、哲学のテクストを原語で読むとは、この細部に光を当てることにより、著者の思索の襞に入り込み、著者と対話することに他なりません。
外国語の文献を読むことは、多くの時間と手間を必要とするように見えます。しかし、著者が言いたいことを細部まで正確に受け止めることを望むのなら、少なくとも古典的なテクストのついては、翻訳ではなく、もとのテクストを読む方が捷径であるに違いありません。