自分が置かれた社会的、人間的環境のせいで苦痛や不快感を覚えながら毎日を過ごしている人は少なくありません。そして、環境に由来する苦痛や不快感の中には、「漠然とした違和感」から「この世の地獄」まで、程度と性質に関してさまざまなものを区別することができます。
大抵の場合、このような人は、居心地の悪さから逃れることを試みます。また、身を置いて楽しくない場所から立ち去るのは、つねに好ましいことです。居心地の悪さを覚えたら、身を翻して逃げ出すのは、早ければ早いほどよいと私は考えています。
「ここは私がいる場所ではない」という判断が心に生まれ、そして、この判断の根拠を自分自身に具体的に説明することができるようになったら、時を措かずに逃げ出す準備を始めるべきでしょう。自分にはふさわしくないことをが明瞭であるにもかかわらず、同じ場所にとどまり続けることほど、心身にとって有害な選択はありません。
ただ、居心地の悪い場所から逃げるときに注意しなければならないことが1つあります。それは、「理想郷はない」ということです。
自分が身を置く場所を変えるためには、自分自身を納得させる相応の理由がなければなりません。したがって、逃げ出すときには、自分の苦痛や不快感の原因となりうるようなものがさしあたり見出されない場所を目指すはずです。これは当然のことです。
しかし、逃げ出すときには、「ここが自分のいる場所だ」と心の底から感じられるような場所、あるいは、「混じり気のない居心地のよさ」のようなものを求めるべきではないと私は考えます。況して、このような場所を求めて彷徨するなど、時間の無駄以外の何ものでもありません。なぜなら、混じり気のない居心地のよさを私たちに与えてくれるような場所などというものは、この世のどこにもないからです。
私は、社会という「ジグソーパズル」の「ピース」ではありません。私のためだけの最終的な「居場所」が社会のどこかにあらかじめ用意されており、この場所が空白のまま私を待っているわけではありません。「ネジ」としての私に適合する、そして、私だけに適合する「ネジ穴」がどこかに作られているわけでもありません。