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廃墟をオモチャにすることについて

by 清水真木

 私は、廃墟が苦手です。少なくとも、「なまなましい廃墟」は大嫌いです。なぜ解体して更地にしないのか、不思議で仕方がありません。これは、以前に書いた次の文章で述べたとおりです。

 特に私が苦手とするのが、新しい廃墟です。20世紀になってから作られ、朽ちて行く登場にある構造物、つまり、「廃墟になりかけ」の構造物は、私がもっとも見たくない構造物です。

 長崎県長崎市の沖合に、「軍艦島」と呼ばれる小さな島があります。正式の名称は「端島」です。ユネスコの世界文化遺産に登録されている有名な島です。

 端島には石炭の炭鉱があったせいで、多数の関係者が小さな暮らしていたらしく、護岸堤防で島の周囲が固められ、その上に、鉄筋コンクリート造の高層建築物がそびえ立っているのが見えます。「軍艦島」の名の由来は、海上から眺めたときのその姿が軍艦に似ていることに由来するようです。

 軍艦島は、島全体が廃墟——正確には「廃墟になりかけ」——であり、すでに世界文化遺産に登録される前から有名な観光地でした。実際、たくさんの「廃墟マニア」がこれまでに軍艦島を訪れています。

 しかし、残念ながら、軍艦島を訪れたがる人がいることが、私にはサッパリ理解することができません。私自身は、カネをもらっても訪れたいとは思いません。軍艦島の映像を意に反して目にするだけで、私はいたたまれない気持ちに襲われます。

 軍艦島の映像が私をいたたまれない気持ちにさせるのは、島で暮らしていた人々と現在の平均的な日本人のあいだに、生活様式の点で重なり合う部分が大きいからであるに違いありません。炭鉱が操業を停止して軍艦島が無人島になったのは、1974年、つまり、今からわずか48年前のことにすぎません。1974年以前の島の様子を知る人々の一部が現在もまだ存命です。昔の島を知らない私たちにとってもまた、島で暮らしていた人々の立場に身を置いて現在の島を眺めることに大した困難はないはずです。

 自分の生活(の少なくとも一部)を形作っていた物理的な環境が時間と自然の暴力に負けて短時間のうちに朽ちて行くのを目撃する体験は、非常につらいものです。人間の手になるものがうち捨てられ、形を失って行くプロセスは、惨めさを強く感じさせます。しかし、ことによると、このつらさは、当事者として実際に体験したことがない人には決してわからないものであるかも知れません。

 「廃墟マニア」に属する人々が何らかの意味における「ロマン主義的」な——たとえば「ホラー」的あるいは「ゴシック」的な——幻想への刺戟を求めて摩耶観光ホテルや軍艦島を訪れるのかも知れません。(18世紀末から19世紀初めのイギリス人が「ピクチャレスク」という言葉で理解していたものがこれに当たります。)そして、この場合、彼ら/彼女らの廃墟体験は、自分の——あるいは人間の——生活環境に引きつけて廃墟を眺めるのに必要な想像力は最初から遮断され、完全な「他人事」になっているのでしょう。これは、ジョン・ラスキンが『近代画家論』において「表面的なピクチャレスク」と名づけた態度であり、まだ「なまなましさ」の残る軍艦島のような廃墟を眺め、これを評価するときには厳しく斥けられるべきものであると私自身は考えています。

 軍艦島に話を限るなら、これは、昭和における人間の労働と生活の場であったばかりではなく、近代における鉱工業の歴史を伝える痕跡として価値あるものであり、この意味において、更地に戻すことは容易ではないかも知れません。しかし、消滅集落(=廃村)に放置された廃屋は、決して見世物ではなく、むしろ、廃屋は、これを眺める者の精神の健康を蝕む危険なものですらあります。このようなものは、自治体の責任においてすぐに解体し、更地へと、あるいは、もとの自然へと戻すことが好ましいと私は考えています。

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