Home 世間話 政治家の常識と世間の常識について(前篇)

政治家の常識と世間の常識について(前篇)

by 清水真木

 今年の夏以降、旧「統一教会」と政治家との関係が公共の言論空間において繰り返し話題として取り上げられています。特に、野党は、政府や与党に対する攻撃材料としてこれを利用しているように見えます。

 私自身は、旧「統一教会」の取り上げられ方は、規模の点でも理解の点でも不適切であると考えています。野党は、(森友、加計学園問題のときと同じように、)本当なら経済や安全保障の喫緊の課題に対処するために費やされるべき政府と与党の貴重なリソースを浪費させ、意思決定を混乱させることを目的として「追求」を続けているように私には見えます。

 たしかに、与党には、旧「統一教会」との距離が非常に近く、統一教会の関係団体に関与しているような政治家がいないわけではないでしょう。また、このような政治家を重要な意思決定の場から排除することに無視することができない意義があるには違いありません。

 しかし、旧「統一教会」と何らかの「関係」があることをみずから認めたり、他から指摘されたりしている政治家の多くは、旧「統一教会」と利害を共有しているわけではなく、まして、旧「統一教会」の味方などではないと考えるのが自然です。

 みずからが主催するパーティで旧「統一教会」の関係者と名刺を交換したり、議員会館を訪ねてきた旧「統一教会」の関係者と同じ写真に収まったり、旧「統一教会」関係のメディアの取材を受けたり、あるいは、選挙活動に参加した運動員の中に旧「統一教会」の信者が混じっていることが判明したとしても、これらだけでは、旧「統一教会」と「関係している」と見なすことはできません。民放のワイドショーは、特定の政治家を、これらの事実にもとづいて旧「統一教会」のシンパであるかのように飽くことなく非難していますが、これは、(いささか当たり障りのある表現を用いることが許されるなら、)民放のワイドショーが主な視聴者として想定する「主婦」の感覚以外の何ものでもないように思われます。

 たしかに、政治を職業としてはいない者の生活において、見ず知らずの他人と名刺交換したり、同じ写真に収まったりする機会は滅多にありません。初対面の他人との名刺交換には、具体的な文脈があるのが普通です。また、見ず知らずの他人と一緒に同じ写真に収まることを求められても、嫌なら断ることができます。そのせいで、私たちは、上に述べたような事態のすべてが政治家本人の選択によるものであり、政治家が責任を負うべきであると考えがちです。(後篇に続く)

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