※この文章は、「政治家の常識と世間の常識について(前篇)」の続きです。
しかし、政治家に近づいてくる他人の数は、普通の人間、特に専業主婦の場合とは桁が異なります。特に与党の国会議員なら、選挙区でも東京でも、毎日少なくとも数十人、多いときには百人以上の初対面の他人と言葉を交わし、名刺を交換し、必要なら同じ写真に収まらなければ、仕事が成り立ちません。当然、相手の素性を細かく調べる余裕などありません。
また——これは私たちが忘れがちな点なのですが——私たちとは異なり、政治家には、面会の求めを拒否する自由というものが原則として与えられていません。というのも、政治家、特に国会議員は、自分に投票してくれた有権者の代表として働くのではなく、国民全体の代表として政治活動を行うからであり、国民の陳情を受け付けてこれに耳を傾けることは、政治家の事実上の義務と見なされているからです。
当然、政治家には、旧「統一教会」の関係者から面会を求められも、「会わない」という選択肢はありません。むしろ、旧「統一教会」の関係者から会ってほしいと求められた政治家が、「怪しいから」「反社会的だから」「統一教会が嫌いだから」というような理由で求めを拒否すると、旧「統一教会」から訴えられ、かつ、敗訴するかも知れません。メディアの取材についてもまた、事情は同じです。
しかし、民放のワイドショーは、政治家の側のこのような諸事情をあえて無視して事柄を過度に単純化し、世間の常識、特に主婦の常識を基準にこれを審きます。民放の番組製作者は、視聴者たちが、政治家には政治家の常識があり、これが世間の常識や主婦の常識とは少なからず異なることを理解することも許容することもできないと想定しているのでしょう。
政治家の行動を支配する常識が世間の常識や主婦の常識と異なるのは当然です。他人に対する影響の大きさが異なり、責任の重さが異なる以上、「主婦の感覚」や「普通の人」の感覚が政治の世界で通用するはずはありません。野党の国会議員の発言の中には、ワイドショーの視聴者と同じ低い水準の知識や見識を反映するもの、プロの政治家の発言とは思われないものが少なくありません。ワイドショー、あるいは、左派の支持者たちやそのメディアは、野党の議員による不用意な発言を好意的に取り上げるかも知れませんが、このような発言は、世論をミスリードし、「政治家の常識や事情など尊重しなくてもかまわない」「主婦に理解できない政治は要らない」というような非常に危険な空気を産み出しかねません。
現在の日本は、(芸能人やスポーツ選手を含む職人を例外として)プロフェッショナリズム、特に、民間企業の枠組では捉えられないプロフェッショナリズムを裏で支える事情や常識を大切にしない社会であると言うことができます。しかし、制度としての民主主義を支えているのが政治家の政治活動であることを考慮するなら、政治家が主婦や世間に迎合することを求めてはならず、むしろ、政治のプロの見方は、つねに十分に尊重されなければならないように思われるのです。