※この文章は、「知識の商品化について(その1)」および「知識の商品化について(その2)」の続きです。
学術研究が産み出す知識は、これを右から左に流すことによって金儲けが可能な商品となりつつあります。すべての学問分野のうち、自然科学は、すでに20世紀のうちに、この「知識の商品化」の圧力に完全に屈してしまいました。自然科学の先端的な研究は、(研究資金の原資が税金であっても、)もはや社会の共有財産となるとはかぎりません。研究成果の周囲には、カネと権利の目に見えないバリアがつねに、そして、いたるところに張り巡らされています。
同じように、社会科学の相当部分もまた、欧米で猛威をふるう「学術雑誌ビジネス」の支配下に入ろうとしています。
ただ、人文科学だけは、研究成果が金儲けと無関係だからでしょう、少なくともわが国では、現在でもなお、その大半の分野において「学芸」の伝統的な姿をとどめているように思われます。
また、学術研究から産み出された知識へのアクセスが有償となったばかりではありません。最近は、研究成果を公表するのにも費用が発生するようになっています。今はまだ少額であるとは言え、自然科学を中心として、多くの専門分野において、研究者は、学会発表なら「論文発表費」、学術雑誌への投稿なら「論文投稿料」なるものの支払いを要求されることが多くなっています1 。(当然、支払わなければ研究成果を公表することはできません。)
現在では、研究成果ばかりではなく、学術研究の成果を公表する手段であるはずの学会や学術雑誌まで「私有化」され、商業主義的な性格を帯びつつあります。これは、知識が単なるブツとして——「情報商材」(?)として——取引されることを意味します。古代世界において、また、近代の西洋世界において、知識の拡大と学芸の発展は、カネの有無に関係なくアクセスが万人に開放されることによってなしとげられるものであると信じられてきたはずです。民主主義の社会における大学や公共図書館の地位は、知識と学芸をめぐるこのような理解を前提として保証されてきたものです。
したがって、知識を産み出す場面でも、また、知識にアクセするときにもカネが必要となるなら、これは、私たち1人ひとりの知的活動の意味と価値の決定的な変質を告げるものであり、無知と蒙昧に支配された社会の到来の前兆として受け止め、危機感を持って全力でこれに抵抗しなければならないと私は(暗澹たる気分に心を満たされながら)考えています。
- もちろん、研究機関に所属している場合は、どちらについても、研究機関に負担してもらえます。また、分野に関係なく、参加者から「学会参加費」なるものを徴収する学会が散見します。哲学関係には、参加費をそれ自体として徴収する学会というものがありません。(受付を通って会場に入る仕組みはないことはありません。また、会員ではない者から、会場では配布される発表要旨の印刷代を徴収する学会はあります。しかし、受付は関所ではありませんから、受付を通らずに入り込むことはつねに可能ですし、発表要旨が不要なら——発表の内容をまったく理解することができなくなる危険はあるとしても——一銭も支払わずに学会に参加することもできます。)そのため、今から30年くらい前に、「学会参加費」という言葉を初めて耳にしたとき、私には何のことか理解することができませんでした。 [↩]