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社会の変化に抵抗することについて(その1)

by 清水真木

 今日、所用があって銀行の窓口に立ち寄りましまた。

 私は、自分の財産をネット上で守るためにあれこれと気を配るのが面倒で、インターネットバンキングを一切使ってきませんでした。だから、私は、入出金や振込が必要なときにはATMまで足を運び、さらに複雑な用件の場合は、たとえネットで手続きできるとしても、銀行の窓口まで出向きます。

 たしかに、インターネットは、生活を便利にしてきました。私自身の生活もまた、多くの場面においてこの恩恵を被ってきました。

 それでも、銀行に関係することだけは、今でもネットから完全に遮断し、すべて「リアル」な形で処理しています。私は、ごく普通の銀行の他に、インターネット専業銀行にも口座を持っていますが、その口座についてすら、すべての入出金と振込を近くの銀行やコンビニのATMまで出向いて処理しています。(「インターネット専業銀行」の「インターネット」の部分をまったく活用していないじゃないか、と言われれば、たしかにそのとおりです。)

 私の場合、銀行については、「便利」と言われるもののすべてに背を向けてきたため、その使い方は、1980年代からほとんど変化していないことになります。

 しかし、今日、窓口に赴いて、椅子に腰掛けて順番を待っていた——私の順番が来るまで20分、用件を処理してもらうまで20分もかかりました——とき、周囲をボンヤリと眺めて気づいたことがあります。やはり、待合スペースにいる客は、大半が高齢者なのです。

 もちろん、高齢者が大半だからと言って、待ち時間が増えることもなく、手続きが遅れることもないはずです。このかぎりにおいて、私には行動を変える必要はないように見えます。

 しかしながら——行動を変えないことにより、余計な気がかりを抱え込まずに済むとしても——私の周囲の社会が(有人の窓口を介さない)送金や決済などを前提として動いているのなら、この動きについて行く努力は、毎日の生活にとり、見えない負担となります。

 行動の基本的なパターンを変えることなく社会の動きについて行くためこのような負担は、それが必要となるときには、その都度「余分な一手間」として意識に姿を現すにすぎず、慣れてしまえば、もはや手間とは感じられなくなるかも知れません。

 しかし、何十年ものあいだに積み重ねられる「余分な一手間」が膨大であり、その負担により、気づかぬうちに生活が大きく歪められている危険すらあります。

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