「節分」という言葉を目にしたとき、心に最初に浮かぶ観念は何か。この問いに対し、私は、「豆まき」と答えます。また、「豆まき」と答えなければいけません。(決して「恵方巻き」などと答えてはいけません。)
私は、伝統的な年中行事なるものを可能なかぎり排除してきました。積極的に排除してきたというよりも、面倒に感じたものから順次廃止して行き、気づいたら、ほぼすべての年中行事が家の中から消えていたというのが実情です。
今のところ、私にとっては、1月1日すら、「授業も会議もない日」以外の何ものでもありません。普段の休みの日と同じように、午前5時に起床し、正月の静かな環境の中、6時から正午までは仕事部屋に立てこもってメモを取りながら本を読んだり、文章を書いたりしていました。「おせち料理」や「お雑煮」と最終的に縁を切ってから、もう10年近くになります。(元号が平成から令和に替わるのに合わせ、年賀状とも縁を切りました。)
ただ、年中行事の相当部分を「粛清」した現在でも、節分の「豆まき」だけは習慣として続けています。もちろん、面倒です。なぜ続けているのか、自分でも十分にはわかっていません。したがって、来年にはやめてしまう可能性が十分にありますが、それでも、今年は豆をまくつもりです。
年中行事に属する儀式に何らかの意味の楽しさを求めるのは間違いであると私は考えています。特に、節分は、立春の前日であり、豆まきは、その年の厄払いを目的とする儀式です。厄払いの儀式であることは、(いくらか迷信深いところがある)私の1年間の生活から豆まきだけは消えない理由の1つであるように思われます。
しかし、私が豆まきを廃止しない最大の理由は、「恵方巻き」にあります。私は、「恵方巻き」を食べることを節分の儀式と見なしません。理由はただ1つ、巻き寿司というのが原則として美味しいものだからです。
儀式というのは食事ではありません。儀式において口にするものは、当然、不味いもの、少なくとも、子どもなら忌避するようなものでなければなりません。供されるものの不味さは、儀式を生活の部分から区別する1つの標識だからです。子どもでも美味しいと感じるようなものが伝統的な儀式において供されるなど、ありうべからざることなのです。たとえば、七草粥や小豆粥は、子どもにとっては、耐えがたいほど不味いに違いありません。
そして、この観点から眺めるなら、豆まきが節分の儀式にふさわしいことは明らかです。炒っただけの豆など、それ自体としては、決して美味しいものではありません。まして、年齢と同じ数の豆を食べるなど、特に老人にとっては苦行に他ならないはずです。
恵方巻きをかじることが節分の儀式の条件を満たさないのは、これが子どもにとっても美味しいものだからであり、豆まきが節分にふさわしいのは、炒った豆が平均的な日本人の味覚によって歓迎されないものだからです。(だから、子どもにも気に入られることを目的として、炒った豆以外のものを豆に混ぜるなどというのは、豆まきの本来の趣旨との関係では邪道と見なされなければなりません。)
ことによると、私が今でも節分の豆まきを続けているのは、「恵方巻き」を許しがたいと思っているからであるのかも知れません。恵方巻きをかじるという不思議な風習が20世紀の終わりに急速に広がることがなければ、ことによると、私は、節分の豆まきをとうの昔に廃止していたような気がします。