Home 世間話 耳学問について、あるいは、「競馬でスったって同じじゃないですか」について(前篇)

耳学問について、あるいは、「競馬でスったって同じじゃないですか」について(前篇)

by 清水真木

 数日前、次の記事を読みました。

 私は、統一教会の問題には興味がありません。また、「三浦瑠麗氏」については、最近の報道内容の他は、ほとんど何も知りません。当然、これまでの発言や行動を細かく追いかけてきたわけでもありません。(少なくとも、テレビでの発言に触れたことは一度もありません。)この意味において、私には、この人物を評価する手がかりはなく、また、評価する資格もないと言うことができます。

 ただ、報道のかぎりでは、三浦氏の発言には、「耳学問の人」に固有の特徴が認められるように私には思われました。

 私が「耳学問」と名づけるのは、聴覚を使用して獲得された知識のことではありません。あらかじめ一言で表現するなら、耳学問とは、「奥行きを欠いた知識や認識の断片の寄せ集め」を意味します。

 耳学問の内容は、何らかの形で発信されることによって「耳学問」として周囲から了解されるのが普通です。そして、人々が耳学問を耳学問として他から識別するのは、当の人物の発言内容が、

  1. 発信する当人のオリジナルではなく、根拠が曖昧である(=他人によって語られたことの受け売りである)、
  2. 一方向的かつ表面的に与えられたものである(=自由な改変ができない)、
  3. 知識あるいは認識が断片的である、

という3つの条件をすべて満たすように見えるかぎりにおいてであるのが普通です。

 また、これら3つの条件を満たすものとして、耳学問は、応用や拡張を基本的に受けつけないことを特徴としています。

 たとえば、経済学をそれ自体として勉強する場合、信頼することができる書物を繙いたり、講義に出席したりして、経済学の全体と部分のあいだを往復しながら知識を積み上げて行くのが一般的な手続きです。そして、「経済学がわかった」とは、部分と全体の往復の中で——重層的な文脈の内部で——獲得された獲得された知識を統一ある全体として自分なりに理解し、みずから文脈を設定して自分なりの言葉で経済現象を語ることができる状態に辿りついたことを意味します。(中篇に続く)

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