ネット上で公開されているブログを読んでいると、ある形式の記事にときどき遭遇します。そして、本文を読んだあと、いくらか不快な気持ちに襲われます。
私に不快感を抱かせるのは、次のような形式の記事です。すなわち、記事が取り上げるテーマに深く関連するはずの言葉が最初に提示され、「この言葉を国語辞典(あるいはウィキペディア)で調べてみました」というような文がこれに続きます。そして、ネット上で閲覧可能な国語辞典、英和辞典、ウィキペディアなどに収められた言葉の説明が、ブロッククォートの形で掲げられています。
もちろん、辞書からの引用のあとに、何か刺戟やヒントに満ちた文章が続いているのなら、不快にはなりません。しかし、「意味を辞書で調べてみた」から始まるブログの記事の多くに筆者に固有の見解が含まれていることは稀であり、独立のページであるという以上の価値はないように見えます。ページビューを稼ぐことを主な目的として、検索の対象になりそうな特定のキーワードを含む文章らしきもの——あるいは、意味ありげな文字列——を出力させているにすぎないのでしょう、(このような記事は、いわゆる「いかがでしたかブログ」の1つの様態でもあります。)最後まで目を通しても、大抵の場合、時間を損したという感じが心に残るばかりです。
もちろん、このような記事が検索でヒットし、これを読まされることがあるとしても、もちろん、私にとっては、すきまの時間を何分か無駄にしただけであり、特別に大きな損害ではありません。本当に忙しいとき、あるいは、重要な調べ物のときには、このようなページが検索でヒットしてもクリックしませんし、間違ってクリックしても、すぐに閉じます。
辞書的な意味を最初に提示する形式の文章は、昔から珍しくありませんでした。ただ、「意味を辞書で調べてみた」から始めた文章を「読ませる」ものにするためには、内容の独創性と高度なテクニックが必要です。辞書的な説明を最初に提示してしまったら、残る課題は、意表を衝いてこれを「裏切って見せる」ことに尽きるからです。(これは、佐々木小次郎が待ち構える巌流島に小舟で乗りつける宮本武蔵の心境に近いかも知れません。)したがって、現在とは異なり、かつては、文章についてプロ中のプロを自任しているのでなければ、このような危険はあえて冒さないのが普通であったはずです。
対話する能力を具えたAIは著しい進歩を遂げています。ブログの記事に「格調」や「個性」や「ひねり」を求めないのであれば、AIに書かせる方が、よほどすぐれたものが出来上がるはずです。「ブログの記事のつまらなさが、AIの代わりに人間が書いていることの証拠になる」とするなら、これほど嘆かわしいことはないように思われます。