Home やや知的なこと 趣味の価値について(前篇)

趣味の価値について(前篇)

by 清水真木

 「趣味は何か」と問われ、「趣味は仕事」と答える男性は少なくないかも知れません。また、少なくとも20世紀にはまだ、「趣味は仕事」という答えが好ましくないものとして受け止められてはいませんでした。

 しかし、21世紀になると、誰ともなく「『趣味は仕事』などと吞気にうそぶいていてはいけない、定年後の心身の健康のために何か趣味を持て」と言うようになり、現在では、ある程度以上の年齢の男性にとり、「趣味」は強迫観念のようになっています。

 さらに最近では、「つながり」が老後の健康の条件であることがマスメディア上で喧伝されたせいで、趣味ばかりではなく、「つながり」もまた強迫観念になりつつあります。

 しかし、「趣味」というのは、命令されて「持つ」ことができるような性格のものではありません。ここでは、まず、「趣味は仕事」という文の意味を検討し、続いて、趣味一般の意味を考えます。

 「趣味は仕事」という文は、それ自体としてはナンセンスです。というのも、「趣味は仕事」とは、「自分が生活の糧を得る手段として従事している労働の内容に対し、生活の糧を得る以上の意義を認めて積極的な関心を抱いており、かつ、生活を充実させるものが他にない」という文の短縮表現にすぎないからです。

 しかし、趣味というものは、基本的に無報酬で行う活動——夏目漱石が有名な講演で用いた言葉を借りるなら「道楽」——です。したがって、本当の意味において「趣味は仕事」であるとは、「同じ仕事を無報酬でも続けるか」という問いに対し「続ける」と答えることを意味します。「同じ仕事を無報酬でも続けるか」と問われ、「報酬がなければやらない」と答える男性は、仕事を趣味としているわけではなく、この場合には、「趣味は仕事」は「趣味はない」の言い換えにすぎないと考えるのが自然です。

 とはいえ、趣味は、無報酬の活動であるばかりではありません。むしろ、趣味が趣味であるためには、自己目的的な活動であることが必要となります。趣味は、自己目的的であるからこそ、無報酬でも続けられるのです。

 昆虫採集が趣味であるとは、数と種類を増やし、これを誰かと競うことを目的として昆虫を集めるのではなく、虫を捕り、これを整理する活動をそれ自体として楽しむことを意味します。活動がそれ自体として目的となり、活動が楽しいと感じられるのでないかぎり、どのような活動も趣味とはならないのです。(後篇に続く)

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