Home 世間話 軽躁状態の社会について(後篇)

軽躁状態の社会について(後篇)

by 清水真木

※この文章は、「軽躁状態の社会について(前篇)」の続きです。

 しかし、やがてわかったのは、不自然な昂揚は、時間の経過とともに終息せず、むしろ、増幅されて行くものらしいことであり、私が感じた不自然な昂揚が経験の不足に由来するものではなく、むしろ、不自然に昂揚する語り方を彼ら/彼女らがあえて見せているらしいことです。

 このようなとき、私は、次の文章を読みました。

 この文章の筆者は、不自然に昂揚した語り方が、特定のトピックについて製作されたYouTubeの動画のみに認められるものではなく、テレビ番組でも事情は同じであり、それどころか、「メディア」全体が「軽躁状態」に覆われていると理解します。これは精神医学の専門家による評価ですから、テンションが無駄に高い状態が「軽躁状態」に当たるという認識に間違いはないのでしょう。

 だからこれは特定のメディアでだけみられるものではない。大抵のメディアで軽躁状態っぽい表現が演じられ、選ばれているのだろう。世間ではうつ状態やうつ病が増加の一途を辿る一方で、メディアはハイテンションの花園。これは、一体なんなのだろう?

https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20200202/1580625000

 しかし、軽躁状態に支配されているのは、「メディア」に限られません。むしろ、この文章の筆者がすでに示唆しているように、メディアの軽躁状態は、私たち1人ひとりが社会において期待されているふるまい方を先取りしているにすぎないのです。

 そして、私たちの注意を惹くこの「軽躁状態」をよしとする社会では、最終的には、誰もがわざとらしく語り、行動することを期待されるようになり、「普通」の「テンション」、「普通」の気分で生活することが許されなくなるのかも知れません。

 深く静かにひとりで考えることには、大きな価値があると私は信じています。しかし、私たちの注意を惹くようになったこの強迫的な「軽躁状態」は、これが支配的になるとともに、1人ひとりの思考を停止させ、「テンションを合わせる」ことだけを求める、うわついた、コミュニケーションを欠いた泥沼のような社会を作り出すことになるのではないか、私はこのようなことをひそかに危惧しています。

 いや、すでに現在、私たちが暮らす社会は、それと気づかぬうちに、「空気」を読まなかったり「水」をさしたりすることを極端に嫌う前近代的な田舎者たちの楽園へと先祖返りを始めているのかも知れません。また、社会全体を覆いつつある「軽躁状態」とは、自分と他人の目をともにこの真相から逸らすための一種の演技として受け止めることもまた、不可能ではないようにも思われます。

関連する投稿

コメントをお願いします。