大学の教師を続けていると、学生を面接する機会がときどきあります。そして、面接のたびに、私の心には、「なぜ面接試験などするのか」という疑問が浮かびます。理由は以下のとおりです。
面接試験には、誰もが誰にでも尋ねる「よくある質問」というものがあります。たとえば、入試の面接なら、「志望理由」「今後の学習計画」「課外活動の実績」などが尋ねられないことはまずないでしょう。受験者の方は、試験対策として、このような質問を想定し、模範解答を暗記して面接に臨みます。
このような状況のもとで、面接者が受験者に対し志望理由を尋ねると、受験者は、「待ってました」とばかりに準備しておいた模範解答をよどみなく暗唱し始めます。高校や予備校は、このような答え方を推奨しているばかりではなく、言いよどむことなく一本調子で記憶を再生することができるよう、訓練を施しているに違いありません。
しかし、このような場面に立ち会うたびに、私は、強い不快感を覚えます。用意してきた答えを機械的に暗唱するというのは、目の前にいる相手と会話することではなく、むしろ、その反対、つまり、相手の存在を無視し否定することを意味するからです。
私たちは、目の前にいる誰かと会話するときには、相手の反応を見ながらゆっくりと言葉を選びます。あらかじめ記憶しておいた文章を相手に向かって機械的に吐き出すなど、会話とは見なされません。普段の会話において、相手に何を質問しても事前に準備された答えの棒読みが戻ってくるなどということがあれば、そのようなとき、私たちは、「目の前にいるのはあんたでなくてもいいんだよ」と相手から繰り返し告げられているような殺伐とした気分に陥るはずです。
同じように、面接試験において受験者が事前に準備した模範解答を面接者に向かって一本調子で吐き出しているとき、面接者は、受験者について、「この受験者は、目の前にいるのが私でなくても、いや、目の前に誰もいなくても態度を変えないだろう」と予想します。言い換えるなら、面接者は、受験者によってその存在を消去されたと感じるのです。