私には、「同世代」との付き合いがあまりありません。仕事の関係で知り合いになる人々の年代も、ある時期までは年上ばかり、そして、気づいてみたら年下ばかりになっています。
「同世代」の感覚を作り出すのは、何よりもまず、若いころに獲得するはずの知識や環境や雰囲気の共有でしょう。そして、私の場合――今でもそうですが、若いころは特に――時代のあらゆる流行(音楽、映画、ファッション、文学、食べもの、あるいはその他の風俗)に向き合ってきませんでした。つまり、同世代(私は1968年生まれです)が1980年代後半から90年前半に共通に経験してきたはずのことをほとんど何も身につけていません。どのような音楽が流行っていたのか、どのような風俗が支配的であったのかなど、当時のことについて私が持っている情報はほぼすべて、あとから手に入れたものです。同じ世代の人々と話していても、いつも何となく話がかみ合わないことが多いのですが、その原因の1つはこの点ではないかと推測しています。
文学作品についても、事情は同じです。私と同年の生まれの作家は何人かいますが、その中で、私が若いころに特に目立っていた――だから、私も名前は知っていた――のは鷺沢萠です。鷺沢の作品は、その没後も現在にいたるまで一定数の読者を獲得しており、彼女が1990年代のわが国を代表する小説家の1人であることは間違いないように思われます。
ただ、「鷺沢萠の小説についてどう思うか」を問われたら――全部に目を通しているわけではありませんが――「私にはリアリティをもって受け止められない」と答えます。(単純に好みではないということも、あるいはあるかも知れませんが、それでも、)「ピンとこない」ことの最大の原因は、鷺沢の作品が暗黙のうちに前提としているはずのこと、つまり、「80年代後半的なもの」や「90年代的なもの」を受け止めるアンテナが私にはなく、これが理解を妨げる壁になっているのでしょう。私としては、この点を少し残念に感じています。
私の母(1935年生まれ)は、この点に関して恵まれていたのかも知れません。というのも、母は、フランソワーズ・サガン(やはり1935年生まれ)の作品を愛読しており、(朝吹登水子氏の翻訳に文句を言いながらも、)日本語で読むことができるものはすべて揃えていました。完全に同じ時代を生きていたからなのか、サガンの言葉には深く共感できる部分があったようですが、その正体は、私には謎でした。
私自身、サガンを読むよう母から勧められたことがあり、一度ならず挑戦しましたが、残念ながら、サガンのどこが面白いのか、私にはサッパリわかりませんでした。(今でもわかりません。)