もう何ヶ月も前に、次のような出来事がありました。
世間は、これを「老害」と見なしているようです。もちろん、そのような側面がないわけではないと思います。
「老害」なるものをあえて定義するなら、「周囲に対しそれなりに影響を与えうる地位にある老人が、周囲において共有されている常識的な原則よりも自分自身の信条や経験則を優先することによって、みずからが帰属する集団に与える害悪(、および、このような害悪を惹き起こす老人自身のこと)」となるでしょう。
そして、上の記事で語られているのは、この意味における「老害」の典型であると言えないことはありません。
もっとも、老害は、どのような老人でも惹き起こすものではありません。なぜなら、老害は、「経験を積む」ことが否応なく作り出す闇だからです。さらに具体的に言うなら、老害は、「経験しすぎ」と、経験を基礎とする勘への過剰な信頼の結果なのです。
だから、多量の経験のおかげで周囲に影響を与える機会がない者、あるいは、そもそも何の経験も積んでこなかった者は、どれほど年齢を重ねても、老害を惹き起こしません。この意味において、正確な知識や推理ではなく、政治家、あるいは、下の記事において話題になっているワイドショーのコメンテーターのように、経験と勘に支配された職業の場合、老害が発生しやすいことは確かです。
特に、職業政治家やコメンテーターの場合、経験と勘を保証してきたのが、目に見える作品ではなく、関係者の「納得感」のような得体の知れないものであるだけに、老害の危険は特に深刻であると言うことができます。(民間企業のホワイトカラーに認められる老害についてもまた、事情は同じです。)
私たちは、特定の狭い領域において経験を積むとともに、その領域に次第に詳しくなり、さまざまな技能や知識を身につけます。そして、特定の作業や職務を反射的に処理することができるようになります。
これは、作業や職務の遂行の効率にとっては好ましいことであるかも知れません。しかし、ある領域に通じているという自信は、その領域の外部にまなざしを向けること、あるいは、自分よりも経験の少ない他人の声に耳を傾けることを妨げます。経験は、イノベーションを惹き起こすような新しいものの見方を拒否したり、上の記事にあるように、時代や常識から乖離したことを(それと気づかぬまま)主張したりする危険に私たちをさらします。
「老害」の原因となる人々は、周囲の意見を1つにまとめて集団を意思決定へと導くことについて多量の経験を積んできた専門家であることが少なくありません。しかし、膨大な時間を運転に費やしてきたタクシーの運転手の運転が周囲の目に上手とは映らず、むしろ、素人による慎重な運転の方が上手に見えるように――完全な素人の判断がつねに正しいわけではないとしても――専門家の経験あるいは「経験しすぎ」が、視野を狭め、成長と改善の可能性をみずから閉ざすことがありうるのは確かであるように思われます。
私たちは、経験を積み、あることに自信を持つとき、「老害」の闇がそこに同時に広がることをつねに警戒し、慎重で謙虚な姿勢を心がけなければならないのでしょう。