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私は廃墟が苦手です

by 清水真木

 私は「廃墟」が大の苦手です。廃墟を訪れる趣味はありません。もちろん、写真や映像で間接的に見るだけでも気持ちが悪くなります。

 私に耐えられるのは、せいぜいのところ古代ギリシアやローマの遺跡、あるいは、中世ヨーロッパの要塞のように、すでに何百年も風雨にさらされて石造りの基礎以外には何も残っていないようなものだけです。使用されなくなってからまだ数十年、場合によっては数年しか経過していないような建築物、今まさに朽ちて行く過程にあるような構造物など、生々しすぎて直視することすらできません。世の中には、廃墟の愛好家なるものがいるらしいのですが、残念ながら、私には、その「愛」がわかりません。

 しばらく前、神戸市にあった「摩耶観光ホテル」の映像をテレビで見たことがあります。これは、1993(平成5)年、つまり今から28年前まで宿泊施設として使われていた建物ですが、これ以後は修復も清掃もされないまま放置され、今はちょうど、崩壊の途上にあるようです。このまま何の手も加えられることがなければ、10年後か20年後には倒壊するのでしょう*1

 古代や中世の遺跡は、すでに朽ちるべきものがすべて朽ち、もはや基本的に姿を変えない「枯れた廃墟」です。これに対し、摩耶観光ホテルは、朽ちる途上にある廃墟、動きのある廃墟であり、いわば「中途半端な廃墟」であると言うことができます。ことによると、廃墟の「味」というものがあるとするなら、それは、このような中途半端な廃墟の生々しさにあるのかも知れません。

 しかし、私などは、このような生々しい廃墟を目にすると、ある種の悲痛な感じに襲われます。私の目には、中途半端な廃墟が、補修したり清掃したりするのに費やされた長年の努力の積み重ねが時間の暴力に最終的に敗北した結果としてしか映らないからです。

 また、廃墟、特に「中途半端な廃墟」を愛することができるためには、それなりの気力と体力が必要となるように思われます。

 一般に、朽ちて行くもの、壊れたもの、もはやその本来の役割を果たしていないものは、私たちの心を波立たせるはずです。たとえば、自宅にある家具が壊れていたら、窓が壊れて開けることができなくなっていたら、また、いたるところにゴミが放置されていたら、たとえ日常生活に直接には支障がないとしても、これらが視界に入るたびに余計な注意を惹くに違いありません。そして、そのたびに、私たちは不快になり、体力と気力を削られて行くはずです。

 したがって、壊れて行くもの、朽ちて行くものが目の前にあることを許容し、これを鑑賞する者には、生活を賦活する刺戟としてこのような不快感を受け止めることができるだけの体力や余裕があると考えなければなりません。もちろん、私には、このような気力も体力もなく、テレビの映りが少し悪いだけで落ち着きを失ってしまいます。

 1年くらい前、勤務している大学で建て替えが進められている建物について、その工事の進捗状況の説明を聴く機会がありました。その席で、費用を抑えるため、外装の仕様の一部を変更するという報告がありました。私はすかさず手を挙げ、初期費用を抑えるとメインテナンスのコストが上昇し、メインテナンスが適切にできないと、建物の耐久性が損なわれるのではないかと質問しました。建物が――部分的にであるとしても――廃墟化するなど、想像するだけで恐ろしかったからです。私が得た答えは、「放置しないから大丈夫」だったのですが……。

*1:最近、登録有形文化財になったようです。廃墟の外観を廃墟の状態で「保存」するとはどういうことなのか、私にとってはもはや謎です……。

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