現在の私が身につけており、かつ、日々の経験を形作っている知識や技術の大半は、独学によるものです。これは、私に固有の事情ではありません。
みずからの成長を望む者なら誰でも、生涯にわたって何らかの勉強を手放すことはないはずです。もちろん、児童、生徒、学生などとして広い意味における「学校」に身を置くことができる期間は、ながい人生のうち、初期のわずかな部分を占めるに過ぎません。学校で教えられたことをその後の人生においてみずから日々更新し、修正し、充実させて行くことは、大人の責務なのです。当然、私たちが持つ知識のうち「学校で教わったこと」が占める割合は、時間の経過とともに小さくなって行くことになります。
つまり、学校を離れてからの人生における勉強の大部分は、いずれにしても独学によらざるをえません。ある程度以上の年齢に達しているにもかかわらず独学の習慣も経験もないとするなら、それは、成長する気がない、人間を続ける気がない、ヒトの格好をしたおサルである、というのと同じであると私は考えています。
とはいえ、また、それだけに、正規の教育課程を離れたあとに何かを教えてもらう機会はとても貴重です。なぜなら、独学することには、克服しなければならない大きな障害があるからです*1。この障害を独力で乗り越えることができないわけではない場合でも、相当な時間と体力を試行錯誤に費やす覚悟が必要となります。
私の経験の範囲では、独学の最大の短所は、勉強において困難に逢着し、先に進むことができなくなったとき、質問する相手が身近にいないことです。そして、学校に身を置いて何かを学ぶ最大の長所もまた、この点にあります。つまり、学校で学ぶ者は、専門家——あるいは、その分野の学習に関し自分よりも経験がある者——に無償で質問することができるのです。この点を措いて学校で学ぶメリットはない、と私は考えます。
教師とは、わかりやすく、やさしく、親切な授業によって、勉強における障害をあらかじめ取り除いてくれる存在では決してありません。教師の役割は、みずから主体的に勉強する生徒や学生が困難に逢着し、そして、助けを求められたとき、学ぶ者の試行錯誤のコストを可能なかぎり節約するような形でこの困難を克服する道筋を示すことであり、かつ、これ以外にはありません*2。
義務教育については事情は少し違いますが、高等学校以上であれば、(大学院の博士課程で習得することがふさわしいような最先端の科学的な知見でもないかぎり、)「教えてくれ」と個別に求められていない状態で教師が生徒や学生にあらかじめ差し出すものは、それぞれの教師の価値とはほとんどまったく関係ないと言うことができます。
たとえば、外国語を身につけるとき*3、あるいは、楽器の演奏技術を習得するとき、困難は把握することができても、その困難を乗り越える方略がわからないことが少なくありません。文献を調べても、ネットで検索しても、自分で試行錯誤しても問題が解決せず、途方に暮れることがあります。すぐに質問することができる専門家が身近にいることのありがたみを感じるのは、そのようなときです。
結局、教師が価値ある存在として私たちの前に姿を現すためには、何よりもまず、私たちが主体的に真剣に学ぶ者であることが必要なのでしょう。
*1:勉強の内容によっては、独学を続けるかぎり、決して克服することができない限界に逢着することもあります。たとえば、楽器の演奏やスポーツに必要な技術の相当部分は、独学者には「初歩」のレベルを超えて先に進むことは不可能でしょう。また、哲学的な文献の読解の技術もここに含まれます。
*2:「話が下手」「板書が汚い」「退屈」・・・・・・このような苦情を教師に投げつけるのは、教師の役割をわかっていないことの証拠です。
*3:「外国語を学ぶ者」には、実際的な動機にもとづきTOEICやTOEFLの受験勉強に明け暮れるような者は含まれません。外国語を学ぶとは、そのような作業を意味しないと私は考えています。
英語力の向上について