人生においてもっとも優先的にすべきことは何か。もちろん、この答えは人によって異なります。私たちが送る人生がそれぞれ異なるからです。
また、形式的に考えるなら、私たちの人生行路に姿を現すものに無駄なもの、無意味なものは何もありません。すべてのものは、私の人生を形作るかぎりにおいて有意味であり価値があるのです。したがって、「人生において優先的にすべきことなどない、すべては等価であり、すべては重要である」と言えないことはありません。
とはいえ、現実には、普段の生活の相当な部分は、意味があるとは思われない——それどころか、「割に合わない」「むなしい」という明瞭な自覚とともに処理される——単なる「雑用」によって占められています。実際、すべきことに優先順位をつけず、目の前に現れたもののために無差別に時間と体力を費やす者の人生は、誰の目にも「行き当たりばったり」に映るでしょう。
また、何か「しなければならないこと」が目の前に現れたとき、これが大切ではないわけではないことはわかるとしても、これが他のことを脇に置いて優先的に手をつけるに値するという確信が得られない場合も少なくありません。そして、誰にとっても厄介なのは、無駄であり無意味であることが明瞭であるような雑用ではなく、むしろ、このようなタイプの仕事や作業や生き方、つまり、「しなければならない」のはわかっているが、他のさまざまな「しなければならない」こととの関係において優先順位を決められないものをあえて評価することでしょう。
私は、他人の不合理な時間の使い方を見るたびに、「優先順位をつければよいのに」などと上から目線で批評してきました。しかし、自分自身の生活については、これを合理的に組織することに必ずしも成功していません。
それでも、幸いなことに、目の前にある何らかの「しなければならないこと」が私にとって重要であるかどうかを識別するための1つの標識は持っています。すなわち、私は、私がこれから「しなければならない」ことについて、これを遂行するのに費やされる時間は少ないほど好ましいかどうかを自分に問いかけることにしています。(中篇に続く)