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ふたたび故郷について

by 清水真木

 しばらく前、次の短篇集を読みました。

 ゲイルズバーグは、アメリカのイリノイ州西部にある小都市です。表題作に当たる「ゲイルズバーグの春を愛す」では、このゲイルズバーグで起こった3つの不思議な出来事が描かれます。

 物語の語り手は、この街で育ち、この街を心の底から愛し、そして、この街で暮らす1人の新聞記者です。この語り手は、3つの不思議な出来事を紹介したあと、古きよき街の姿を変更する試みに対する「街」自身による抵抗と解釈しています。

 私の自宅は、杉並区の荻窪にあります。自宅があるのは、私が生まれ育った場所であり、この意味において故郷に当たります。ただ、上記の作品の語り手がゲイルズバーグに強い愛着を示すのとは異なり、私には、荻窪には特別な愛着はなく、以前に書いたように、私が荻窪で暮らしているのは、他に行く場所がないからにすぎません。そもそも、故郷を持たない私には、故郷に対する愛着というものがよくわかりません。

 特に、この数年のあいだに、私が住む地域は、その相貌を大きく変えつつあります。100坪以上の敷地は次々に細分化され、30坪に満たない狭小住宅、外からは棟割長屋のようにしか見えない鉛筆状の建売住宅が狭い道路に面していたるところで櫛比しています。中には、道路の両側にある土地がすべて細かく分割され、「狭小建売住宅の展示場」(?)のようになってしまったエリアもあります。この20年のあいだに、私の自宅を中心とする半径100メートルの範囲にある建物の数は約3倍になりました。

 これは、家屋が密集してはいても、もはや「街」の名には値しない不気味な何ものか、水平方向に押しつぶされたSiedlungにすぎないように思われます。

 私が荻窪、特に私の自宅の周辺について、これが街ではないと考えるのは、平日の日中に生産活動に従事する人口がゼロにかぎりなく近いからです。ジェイン・ジェイコブズの指摘を俟つまでもなく、都市は、多種多様な活動の場の混在において、その本来の役割を——経済的、物理的にも、また、住人の生活の質という点でも——初めて担うものであり、きれいにゾーニングされた地域はもはや都市ではないはずです。

 荻窪は、20世紀の後半、数十年をかけて、単なる田舎から「都会」らしきものへと緩やかに移行してきました。しかし、荻窪は、「都会」らしきものであることをやめ、幹線道路沿いの没個性的な単なる「郊外」、住人の誰ひとり愛着を持たないSiedlungへと変容しつつあるように思われます。「ゲイルズバーグの春を愛す」のような作品、故郷への愛着を純粋に表現する文学作品が荻窪に関して生まれることは決してないでしょう。

 「少子化」や「都心回帰」などの言葉が私のような不動産の素人の耳にまで届いているにもかかわらず、荻窪において土地の細分化と狭小建売住宅の増殖がとどまることなく進行しているとするなら、それは、荻窪が単なる「郊外」へと転落しつつあることの徴であるのかも知れません。

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1 comment

naoko-alexandra 2021年11月9日 - 3:59 AM

なんて懐かしいのでしょう!少女の頃、この本の表紙を描いた漫画家内田善美の作品が大好きで、同著にインスピレーションを受けた内田善美の作品『かすみ草にゆれる汽車』を読んで、その後『ゲイルスバーグの春を愛す』も手に取りました。ン十年前の話です。

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