誰にでも、1年に原則として1回、決まった時期にしか口にしない食べ物がいくつかあるのではないかと思います。その多くは、いわゆる「縁起物」です。節分の豆は、その代表でしょう。また、私自身には食べる習慣がありませんが、正月の七草粥や小豆粥も、年中行事との関係において、かつ、年中行事との関係においてのみ、一種の儀式として食べる人が少なくないはずです。
とはいえ、これら縁起物の他に、個人的な習慣として、ある決まった季節に食べるものを決めている人は少なくないのではないかと想像します。私にとっては、「粟(あわ)ぜんざい」がこれに当たります。秋になると、冬になるまでのあいだに少なくとも1回はこれを食べるのを習慣としています。
子どものころから、11月中に母に連れられて繁華街に出る機会があると、汁粉やあんみつを出すようなタイプの喫茶店で粟(あわ)ぜんざいを食べていました。
私の家にこのような習慣がある理由は不明です。粟(あわ)ぜんざいの素材となる粟(あわ)や黍(きび)を始めとする雑穀の多くが秋に収穫され、かつては秋にしか食べられなかったからかも知れません。現在では、1年を通して粟(あわ)ぜんざいを食べられる店があることは知っていますが、それでも、私にとり、粟(あわ)ぜんざいは、「秋の味覚」を代表する食べ物です。
なお、東京で食べられる主な「ぜんざい」には、粟(あわ)ぜんざいと栗(くり)ぜんざいの2種類があります。しかし、同じ「ぜんざい」とは言っても、両者のあいだには、粟(あわ)と栗(くり)という素材の違いがあるばかりではなく、外見の点でもまた、両者はハッキリと異なっています。
さらに、東京では、栗(くり)ぜんざいが「ぜんざい界」(?)全体を代表すると一般に考えられているのか、栗(くり)ぜんざいしかメニューにない店が大多数を占め、2種類のぜんざいの両方を食べられる店は少数派です。(粟(あわ)ぜんざいだけを出す店というのは、少なくとも私は知りません。)粟(あわ)ぜんざいを外で食べるには、店をわざわざ捜すことが必要になります。
とはいえ、私の家では、これも理由はわかりませんが、「ぜんざい」と言えば粟(あわ)ぜんざいのことでした。私自身、記憶しているかぎり、栗(くり)ぜんざいを食べたことがありません。亡くなった母など、粟(あわ)ぜんざいを食べるたびに、「栗(くり)ぜんざいを有り難がって食べるのは田舎者」などという、大いに当たり障りのある根拠不明の発言を繰り返していました。
一昨年と昨年は、あまりにも多忙だったため、粟(あわ)ぜんざいを食べる機会を逃しました。
今はまだ、新型コロナウィルス感染症が恐ろしく、繁華街の喫茶店でものを食べる気にはなれません。それでも、今年は、時間と気分に若干の余裕があるため、自宅でもち粟(あわ)を炊いてぜんざいを作ることにしています。