何年か前、都心のある大きな書店で1冊の本を手に取り、ページをパラパラとめくっていたとき、偶然、私の著書の1つへの言及を発見し、驚いたことがあります。
しかし、言及の前後の箇所を注意して読んだとき、私はふたたび驚きました。というのも、この書物の著者は、私の主張を完全に誤解し、誤解にもとづいて私の著書のあちこちを——困ったことに、肯定的に——引用していたからです。
このような事態は、哲学では珍しいことではありません。哲学的な著作は、誤解の危険につねにさらされています。哲学の専門家によるものを除けば、一般向けの書物における「哲学書」からの引用は、誤った理解にもとづくものであるのが普通であるかも知れません。
私自身は、自分の文章について、できるかぎり誤解の余地を残さないよう、つねに工夫してきました。それでも、残念ながら、誤読されることが少なくありません。
もちろん、あらゆるタイプのコミュニケーションにおいて、その成否を決める権利はつねに受け手にあります。会話において「話し手の意図が聴き手に伝わらない」ことがあるなら、その責任はすべて話し手の側にあります。メールの場合、書き手の意図が読み手に伝わらないことの責任は書き手にあります。同じように、読書がコミュニケーションの一種であるかぎり、読み手には誤読に関し全面的な自由が与えられています。書物の誤読は読み手の権利なのであり、「著者の意図を理解することができない読者が悪い」などと言う資格は著者にはないのです。
ただ、全面的な誤読の権利が読者に与えられているとしても、私自身は、他の著者の手になる著書を引用するときには、著者に意図に沿った引用であるかどうか慎重に確認することを心がけています。誤読の権利は、著者の意図を尊重する義務と一体をなすものであるはずだからであり、決して無条件のものではないからです。
著者の意図を尊重する義務とは、「著者はこういうことを言いたいはずだ」と最大限好意的に推測しながら読む義務を意味します。書物を媒介とするコミュニケーションには、読者の誤読を防ぐ著者の努力と、著者の意図に沿って作品を理解する読者の側の努力が必要となるのです。
著者の意図を尊重する義務をともなわないむきだしの誤読の権利の行使は、一種の暴力であり、コミュニケーションを成立させるつもりがないという意思表示となってしまうでしょう。