私には、自分が狂気に陥っており、自分の言動が支離滅裂なのではないかという漠然とした疑念に襲われ、そして、恐怖を覚える瞬間があります。(狂気に陥りかねないほどヒマを持て余し、下らないことに注意が向かうことがその主な原因であるに違いありません。)そして、このようなとき、私は、自分が正気であることの証拠を死に物狂いで探し始めます。
けれども、冷静に考えるなら、私が正気であることを自分で証明するなど不可能であることがわかります。
たとえば、自分の推理をみずから吟味し、真っ当であることを確認する試みは失敗せざるをえません。推理が形式的に妥当であることは、狂気につねに両立可能だからです。
また、自分の意識がたしかに現実を捉えていることを証明することもできません。私の意識に現れるものの(言葉の通俗的な意味における)リアリティは、私が見ているのが現実であることをいささかも保証しないからです。
もちろん、私が正気であることを誰かに確認してもらうことなど期待できるはずがありません。自分の言動に正気ならざるものを感じ、そして、私が正気であるかどうかを尋ねても、本当のことが告げられる保証などないからです。私が実際に狂気に陥っているのなら、むしろ、その事実が私に伝えられることはないかも知れません。
とはいえ、私たちには、完全な狂気に囚われていないことを確認するための手段が1つだけ残されています。すなわち、完全に、あるいは、少なくとも部分的に正気であるかぎり、私たちには、自分の言動が支離滅裂ではないかと疑うことができるのです。
自分が狂気に陥っているのではないかと疑うことは、それ自体としては、(少なくとも部分的に)正気な人間にしかなしえない試みであるように思われます。というのも、完全な狂気——「完全な狂気」の意味にもよりますが——に陥った人間の目には、みずからが真っ当な存在と映るはずだからです。狂気の人間の心には、自分のあり方に対する一片の懐疑も認められないでしょう。
たしかに、上に述べたように、自分が正気であることを確認することは不可能です。つまり、自分が狂気に陥っているのではないか、自分の言動が実は支離滅裂なのではないか、などと疑ってみても、この疑念が最終的に解消されることはありません。それでも、正気を維持するためには、自分自身のあり方を疑い続けることが必要となるでしょう。
たえざる懐疑が正気の条件であるなら、正気であるとは、自分自身に対する安定した信頼を持たない状態を意味します。換言すれば、自分自身のあり方を本当の意味において*1疑い続けるかぎりにおいて、また、自分自身に対する信頼の地盤をみずから掘り崩すことをやめないかぎりにおいて、私たちは正気でありうるのです。
正気であるとは、熱いトタン屋根の上にあえてとどまり続けるような不快な状態に他なりません。この点において、狂気の方がよほど気楽であると言うことができるかも知れません。
*1:「本当の意味において疑う」とは、「私は正気なんだろうか」という疑問文を作ることではなく、自分が正気であることを心の底から疑わしく感じ、そして、正気であることの証拠を必死で探すことを意味します。