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昨日、次のような文章を書きました。
以下は、その補足です。
ある疑念を心に抱くと、私たちは、これを解消することを試みます。なぜなら、疑念は不快だからです。
前の文章で述べたとおり、自分自身のあり方に関する疑念のもとにとどまり続けることは、正気の条件——というよりも、正気の定義——です。正気であるとは自分を疑うことであり、このかぎりにおいて不快なことなのです。
もちろん、不快な状態にあえてとどまる努力が正気の人生の前提であるとしても、これは、短期的には生活の質を損う努力であり、避ける方が好ましいには決まっています。そもそも、不快な状態にとどまるには、精神の特別な強さが必要となるでしょう。
ただ、あらゆる疑念の解消には、それぞれの疑念の性質にふさわしい手順があります。疑念の解消は「探求」の一種だからであり、疑念の解消が探求であるかぎり、探求される対象そのものの秩序に従うことが必要だからです。(「他人に愚痴をこぼす」「ネットに誹謗中傷を書き込む」「酒を飲んで忘れる」「カルトに頼る」などは本質的に現実逃避であり、これらが直接の解決策になることは滅多にありません。)
もちろん、秩序に従って疑念を解消するためには、目をそむけたいものをあえて直視することが避けられません。疑念のうちにとどまることが精神の強さを必要とするのと同じように、疑念の正しい解消にもまた、「勇気」という名の精神の強さを欠かすことはできないのです。