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授業におけるジェスチャーについて

by 清水真木

数日前、次の記事をネットで読みました。

 この記事の冒頭において、筆者は、新型コロナウィルス感染症の流行によりオンライン授業を強いられていたあいだ、対面で行う授業の方がZoomを用いたオンライン授業よりもはるかに好ましいと考えていたこと、したがって、対面による授業の再開には大いに期待していたこと、しかし、現実に再開された対面授業では、予想しなかった困難に逢着したことを報告しています。その困難とは、全員がマスクを着用しているせいで、出席者の反応を正確に読み取ることができないことにあります。

 そして、この困難を克服するために筆者が同僚から提案されたのが、手を中心とするジェスチャーを活用することでした。(手話ではありません。)

 本文では、筆者が偶然に発見した書物、17世紀にイギリスのジョン・ブルワーという人物によって執筆されたChirologiaーー現代英語のchirologyの意味は「手相占い」ですが、文字通りの意味は「手の学」です——が紹介されています。ブルワーは、手によるジェスチャーこそ、バベルとともに失われた「普遍言語」であることを主張し、それぞれのジェスチャーの各言語、主にラテン語への翻訳を試みているようです。

 もちろん、筆者が指摘するように、ジェスチャーが普遍言語であり、これを各言語に翻訳することができるのなら、日常生活にはそれぞれの言語があれば十分であり、ジェスチャーなど不要であることになってしまいます。この意味において、ブルワーの主張には矛盾が認められます。

 しかし、それでも、この記事の筆者によれば、手を中心とするジェスチャーは、対面授業の困難の一部を克服する手段となりうるものであり、少なくとも、新型コロナウィルス感染症は、「心の動きを反映する手」という原始的な道具の役割を見直す機会を私たちに与えました。

 たしかに、全員がマスクを付けた状態で行われる対面の授業では、学生の反応を確認することは容易ではありません。私の場合は、この記事の筆者とは反対に、ジェスチャーを活用するのではなく、マスクごしでも明確な反応が得られるような話題を選ぶ ことにより問題の解決を試みてきました。

 しかし、学生に受けるような話題ばかりに集中するのは、好ましいことではないかも知れません。新型コロナウィルス感染症との共生、いや、正確には、マスクとの共生が続くかぎり、今後は、学生が身体を用いて不知不識に発している情報を読み取り、そして、ジェスチャーを補助的な手段として学生に語りかける技術が必要となるかも知れません。

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