昨日、次の記事をネットで読み、そして、いくらか残念に感じました。
念のために言っておくなら、私は、野球には不案内であり、この記事で主に話題となっている「大谷翔平選手」についてもまた、アメリカで活躍する選手であること以外には何も知りません。したがって、以下の話では、大谷選手が国民栄誉賞に値する人物であることが前提となります。
上の記事を読み、私の心に浮かんだのは、大谷選手に国民栄誉賞を何としてでも受け取ってもらうよう、政府は強く働きかけるべきだったのではないかという感想です。
上の記事には、国民栄誉賞を過去に辞退した人々の何人かについて、その理由が記されていますが、これらを見るかぎり、辞退した人々は、また、ことによると政府も、国民栄誉賞を含む勲章、褒章等の「栄典」の政治的な役割を根本的に誤解しているように見えます。
栄典というのは、重要な功績を挙げた者を褒める点にその本質があると普通には考えられています。たしかに、このような役割がないことはないかも知れませんが、これは栄典の本質ではありません。
むしろ、栄典のもっとも重要な役割は、「受勲した者の将来を買う」点にあります。というのも、わが国から勲章や褒章を授与された者は——日本人でも外国人でも——その後の人生において2つの点を新たに考慮するようになると予想することができます。
すなわち、一方において、受章者は、勲章や褒章にふさわしくない不名誉を可能なかぎり避け、模範的な人生を送ることを心がけるはずです。「立ち小便できなくなる」という理由で国民栄誉賞を辞退した人が過去にいたようですが、政府は、このような人に対し、立ち小便する可能性を封じるためだけにでも国民栄誉賞を授与すべきであったと私は考えます。
そして、他方において——叙勲する政府にとってはこちらの役割の方が大切であるわけですが——受章者は、その後の人生において、わが国の利益になるようふるまうこと、あるいは少なくとも、わが国の不利益になるような言動を避けることを心がけるはずです。叙勲により、受章者と受章者の功績を認めて叙勲した国家のあいだに互酬的関係が作り出され、受章者は、わが国に対して弱い好意を持つことが期待されるからです。栄典とは、わが国の可能的な応援団を作る手段なのです。
栄典の役割が国家の可能的な応援団を作ることに存するなら、国民栄誉賞を含むすべての勲章や褒章が効果をもっとも発揮するのは、
- 受勲後にながい人生を送るはずの若い人に与えられたとき、かつ、
- 叙勲の理由となる功績が確認されたのちに間髪を入れずに与えられるとき
であることになります。新たに悪いことをする気力も体力も時間もない老人に勲章を与えることは、無駄ではないとしても、日本および日本人の利益にはならないように思われます。
今回の国民栄誉賞の授与は、上記の1.と2.の両方を満たすものであり、栄典の「費用対効果」という点において、最高の条件を具えていたはずであり、この意味において、私は、大谷選手の辞退を残念に感じています。