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注意力の限界について

by 清水真木

数日前、外出先から帰宅し、ノブを引いて玄関の扉を開けようとしたとき、ノブから手を滑らせました。

自宅の玄関のドアが重いため、ノブを掴んだ状態で身体をドアとは反対に少し傾けて手前に勢いよく引くことが習慣になっており、ノブを握り損なったとき、身体のバランスを崩しました。私の自宅の玄関は、地面から階段を数段上がったところにあります。そのため、身体がドアから離れた勢いで階段から転落しそうになりました。すべての原因は私の注意不足、つまり、ノブを強く握っていなかったことにあります。

幸いなことに、手が滑ったときに身体が回転したため,転落する前に階段の手すりにぶつかり、大事にはなりませんでした。

ところで、私はこのとき、あらゆる変化について行くことの困難を自覚するのは、注意を向けるなどそれまで考えてみたこともなかったような事柄に対し、新たな注意を向けなければならなくなるときであることに気づきました。

もちろん、注意を向ける対象がただ1つであるなら、同じ失敗を繰り返さないようその都度気をつけていればよいだけです。しかし、二度としないように新たな注意を向けなければならないものが、十分に消化することができないまま日々増大して行くと、注意が分散し、やがて「注意力」(?)がこれに追いつかなくなります。そして、このようなとき、私たちは、注意を向ける対象に優先順位を付けることになります。

誰もが最優先で注意を向けるのは、身体の安全でしょう。たとえば、私は、今後、「ドアを開けるときにはノブを強く握る」よう気をつけるようになるはずです。しかも、ドアを開ける動作のたびに、この点に注意を向けるでしょう。しかし、これは大変に面倒なことです。

そして、身体の安全に注意力を奪われると、これ以外のこと、たとえば制度や常識の変化にまで気が回らなくなってきます。たとえば、世の中には、「あまり親しくない他人に向って言ってはいけないこと」に関し、暗黙のルールがあります。このルールは、時代とともに変化しており、ルールの変化について行くには、それなりの注意力が必要となります。

たとえば、年下の未婚の女性に向って「まだ結婚しないのか」と尋ねたり、子どものいない女性に対して「子どもはまだか」と尋ねたりすることは、20世紀には罪のない挨拶でした。また、褒めるつもりで「美人」「かわいい」などと声をかけることが、社交にとって好ましい発言であると考えられていた時期もありました。

しかし、現在では、これらはすべてハラスメントと見なされる可能性がある危険な発言と見なされています。ある程度以上の年齢——おそらく私よりも上の世代——の男性の場合、女性と言葉を交わすたびに、「言ってはいけないことのリスト」を心に浮かべ、会話のあいだずっと、このリストを参照しながら言葉を選ぶ努力を強いられることになるはずです。

対応への努力を強いられるような変化の量がある限度を超えると、私たちは、注意力を奪うような場面に身を置くことをそれ自体として忌避することで注意力を節約するようになるはずです。具体的には、世代や背景が異なるせいで同じ常識を共有しない他人とは言葉を交わずに済ませたり、勝手がわからない場所に足を踏み入れないようにしたりするでしょう。

このような注意力の分散と節約は、年齢を重ねると行動範囲が狭くなることの原因の1つであるように思われます。私自身、勝手がわからない空間には——「お呼びではない」と判断し——特別な事情がないかぎり足を踏み入れないことにしています。

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