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記念日の増殖について

by 清水真木

政府や自治体は、法律や条例によって休日や祝日を定めています。また、家庭、学校、職場の多くは、これとは別に、それぞれの記念日を持っています。創立記念日、メンバーの誕生日、結婚記念日、命日などがこれに当たります。

常識的に考えるなら、記念日の数は、集団の歴史の長さに比例します。すなわち、生まれたばかりの集団には記念日が少なく、古くから続く集団では、その歴史を想起する機会となる記念日が多くなります。記念日の数は、その集団が参照すべき過去の量の反映であると考えることができます。

とはいえ、記念日の数は、増えることはあっても、自然に減ることはありません。そして、記念日の数が増加することは、過去について、何かを顕彰したり、反省したり、祝ったり、悼んだりするのに費やす時間が増えることを意味します。記念日があまりにも多くなると、集団のメンバーは、過去をたえず思い出し、過去を規準として現在を審き続けなければなりません。

特に、集団が小さい場合、あるいは、みずからの存在を正当化する必要に迫られている集団の場合、メンバーの全員が記念日への積極的なコミットメントを要求されます。そして、これは、考えようによっては、大変に鬱陶しいばかりではなく、未来への自由な投企を阻碍し、集団の活気を奪うことになるように思われます。

わが国の国民の祝日は、外国とくらべて多いことが知られています。その中には、たとえば「春分の日」「秋分の日」のような謎の祝日が含まれています。(明治憲法下の春季皇霊祭と秋季皇霊祭を継承するものであることはわかりますが、それでも、昼の長さと夜の長さが同じであることの何がめでたいのか、理解に苦しむところです。)祝日を少し整理してもよいと思わないこともありません。ただ、祝日が多いのは、わが国の歴史、特に皇室の歴史が長いことの結果ですから、私自身は、これを無理に減らさなくてもよいと考えています。

しかし、職場、学校、家庭などが定める記念日は、放っておくと際限なく増加します。むしろ、集団の健全性を維持するために、私的な集団の記念日は、増やさない努力の方が大切であるように思われるのです。

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