※この文章は、「カギ括弧の濫用について(前篇)」の続きです。
ところで、週刊誌の中吊り広告、特に「週刊新潮」と「週刊文春」は、色使いについても、レイアウトについても、文字のサイズについても、たがいによく似ており、遠くから見ただけでは区別がつきませんでした。しかし、両者のあいだには、1つだけ明確な違いがあり、誌名が隠された状態で広告を見せられても、これがいずれの週刊誌のものであるのかはすぐにわかりました。というのも、「週刊新潮」では、記事のタイトルや見出しで使われる言葉のうち、キーワードとなるもののすべてがカギ括弧で囲まれているからです。(正確に言うなら、カギ括弧で囲まれているからキーワードとして識別されるのです。)
特に目を惹くのが、カギ括弧つきの人名です。「週刊文春」の目次にカギ括弧がまったく使われないわけではありませんが、さすがに人名がカギ括弧で囲まれることはありません。もう何十年も前、自身のスキャンダルを「週刊新潮」に写真つきで取り上げられたある政治家が、記事に目を通し、「どうして俺の名前にカギ括弧がついているんだ!『週刊新潮』は俺のことを何だと思っているんだ!」と憤慨した、という不確かな話を聞いたことがあります。
「週刊新潮」がカギ括弧を多用する理由を直に確かめたことはありませんが、カギ括弧を使いたくなる気分あるいは気持ちは何となくわかります。西洋近代各国語とは異なり、日本語では、単語のあいだにスペースがなく、単語を区切るためには、文の意味を理解することが必要となります。キーワードをカギ括弧で囲むのは、これを前後から視覚的に区別する便利な手段であることは間違いありません。
たしかに、文脈に頼らずに単語を強調する手段としてのカギ括弧には、当の単語が重要であることを説明なしに読み手にわからせる効果があります。しかし、この効果を当てにしてカギ括弧を濫用すると、文章が不当に圧縮され、意味が曖昧になる危険があります。また、放っておくと、カギ括弧の数は際限なく増えて行くようにも思われます。
以前、社会学を専門とするある年長の研究者に私の論文を送ったところ、次のような感想が戻ってきました。「いつも思うけど、哲学の論文ってカギ括弧が多いですよね。それに、カギ括弧つきのテクニカルタームのあとに普通の括弧に入れて原語を添えるというのも、哲学っぽいお作法ですよね。カギ括弧や括弧が多いと『ああ、哲学だな』と感じます・・・・・・。」
それまで、私は、テクニカルタームをすべて無差別にカギ括弧で囲んでいました。(さすがに、人名にはカギ括弧はつけませんでしたが。)しかし、この感想をもらって以来、カギ括弧の使い方に注意を向け、カギ括弧が本当に必要かどうか、その都度考えてみるようになりました。たしかに、昔の自分の論文の本文は、カギ括弧だらけでした。当時の私には思わせぶりな文章を書くつもりなどなかったはずですが、今から読み返すと、カギ括弧を使うことで省略された説明が多く、結果として、思わせぶりな印象を与えていることに気づきます。少しでも気を抜くとカギ括弧が増えてしまうため、今では、カギ括弧で囲む理由を説明することが可能であり、かつ、その理由を文字にすると文章が途方もなく長くなる場合に使用を限るよう心がけています。