しばらく前、都内の大きな書店で本棚を眺めていたとき、次の本を見つけました。
著者の江守賢治氏は、敗戦後、文部省において教科書検定にながく従事したキャリアを持ち、「書道問題研究家」(?)として広く知られた書家です。
私は、今から30年近く前、大学院の修士課程に在学していたころ、氏の『解説字体辞典』(三省堂)を図書館で偶然に手に取り、江守氏の名前を知りました。そして、この本の内容にショックを受けました。この本を読むことにより、私の「漢字観」は、180度変わりました。
江守氏には、毛筆やペンによる習字や書道の普及を目的とする実用的な著作の他に、主に筆順と字体をそれ自体としてテーマとする複数の著作があります。そして、後者を代表し、また、江守氏自身の主著に当たると一般に考えられているのがこの『解説字体辞典』です。
よく知られているように、漢字の字体は、篆書体、隷書体、草書体、行書体、楷書体の5つに大きく分かたれます。これらのうち、歴史的にもっとも新しく、また、もっとも実用的であり、また、もっとも広く使われている(と普通には考えられている)のが楷書体です。(随および唐の時代にその基本的な形が定まりました。)江守氏は、『解説字体辞典』を初めとする各種の著書において、楷書体を漢字の字体の完成形と見なした上で、漢字の字体および筆順に関し楷書体を規準とすべきことを、強い危機感とともに繰り返し主張します。
字体に積極的な興味を持たない人々は、しかし、この江守氏の発言に違和感を抱くのではないかと想像します。というのも、字体についても筆順についても、少なくともわが国ではすでに楷書体が規準として採用されているではないのか、私たちが学習する漢字はすべて楷書体であるし、日本語の活字の標準的な字体である明朝体もまた(行書や草書をモデルとしていないという点では)「楷書みたいなもの」ではないのか・・・・・・、このような疑問が心に浮かぶはずだからです。
けれども、江守氏に従うなら、少なくとも明治以降、わが国において字体の規準となってきたのは、本来の楷書体ではなく、楷書体の誕生から1000年以上を経た18世紀初め、当時の清で編纂された『康熙字典』が採用した字体、つまり「康熙字典体」です。
戦前のわが国において広く流通し、現在では「正字」「旧字」などと呼ばれている字体は、主に康熙字典体にもとづくものです。これを簡略化することで生まれた当用漢字や常用漢字もまた、部分的には、康熙字典体の歪んだ影響のもとにあると江守氏は理解します。