※この文章は、「楷書体について(その1)」および「楷書体について(その2)」の続きです。
文字が社会生活において実用的な役割を担うようになるにあたり、その形は、筆記用具に代表される物理的な条件を考慮しながら、手で書くのにふさわしいかどうかという観点から決められたはずです。(これは漢字に限りません。アルファベットについてもまた、事情は同じです。)したがって、字体は、〈容易に判読することができるかどうか〉という観点からばかりではなく、むしろ〈手で書くことができるかどうか〉、しかも、〈美しく自然に書くことができるかどうか〉という観点から決められなければならないように思われます。楷書体は、手書きにもっとも都合がよい字体であり、楷書体を規準として、字体を見なおすことには無視することのできない意義が認められます。
たしかに、現代では、膨大な文字情報がデジタル化されて流通しています。そして、手書きの文字の交換は、その伝統的な役割を失いつつあります。このような現状を考えるなら、字体の標準を手書きに求めることは、時代錯誤であるように見えます。
けれども、実際に手書きの文字が実際には交換されないとしても、それでもなお、文字が使用されなくなるわけではありません。そして、文字が使用されるかぎり、そして、手書きによる文字の交換がその原型であるかぎり、そこには規範を欠かすことができません。そして、日本語で使用される文字の字体に関するかぎり、これまで述べてきたことから明らかなように、規範となるのは、「(康熙字典体ではなく)楷書体で文字を綴る」という動作であり、これは——金本位制の通貨制度のもとで各国が保有する金と同じように——文字の使用全般においてたえず参照されるべきモデルとして尊重されなければならないように思われるのです。