私は、「ふるさと納税」制度を使ってどこかに寄付したことが一度もありません。また、今のところは、この制度を使ってどこかに寄付するつもりもありません。「ふるさと納税」の制度は廃止されるべきであると考えているからです。
わが国の制度には、本来の趣旨から逸脱して運用されているものが少なくありませんが、「ふるさと納税」ほど多くの国民により公然と悪用されているものはないでしょう。
もちろん、制度の本来の趣旨が無視され、そして制度が悪用されているとしても、その運用によって誰も損害を被る可能性がないのなら、それは、制度がよいものであることを意味します。したがって、制度の本来の趣旨を顧みる必要はありません。しかし、「ふるさと納税」については事情は異なります。
「ふるさと納税」制度が国民のあいだで通販の一種と見なされるとしても、この事実は、それ自体としては何ら問題ではありません。問題なのは、「ふるさと納税」制度を使って何らかの寄付を行う者が、そのたびに、みずからが現に暮らしている地域の自治体とその住民の利益を損ね、これにより、自分の生活の基盤を少しずつ掘り崩している点、換言すれば、この制度のもとでは、誰かの利益が別の誰かの損害と必ず一体になっている点です。
この制度によりどこかの自治体が潤い、その自治体が用意する「返礼品」を作る業者が潤うなら、これは、他の自治体の税収が失われ、他の地自体が損害を被ることをただちに意味します。税収が失われた自治体は、自分が住む自治体への納税を忌避した——つまり、「ふるさと納税」制度を使った——住民に対してもサービスを提供しなければならない以上、サービスの質を維持することは困難になります*1。
形式的に考えるなら、「返礼品」を目当てにしていずれかの自治体に寄付する者たちには、その自治体に対する継続的な愛着も関心も期待することができません*2。彼ら/彼女らは、一回かぎりの「お客」にすぎません。けれども、地方自治というのは、その地域のあり方を決める権利を持ち、その地域の現実に責任を負う住民のものであるはずです。「返礼品」さえ手に入れることができるかぎりにおいて一切の文句を言わない「お客」、「返礼品」が割安に感じられなければすぐに離れて行く「お客」の行動に振り回され、その結果として、自治体の意思決定が歪められてよいはずがありません。
正義、公正、公平は、公共の空間において絶対に守られなければならない原則ですが、「ふるさと納税」のもとでは、この原則は一切顧慮されることがなく、政治と行政は、単なる商売に堕落することを避けられません。
ただ、幸いなことに、多くの自治体では、ふるさと納税にあたり、「返礼品」を「不要」とするオプションを設けています。返礼品を期待しない寄付は、その地域への愛着、あるいは、その地域の特定の問題への関心の反映であると見なして差し支えないように思われます。冒頭で述べたように、私は、「ふるさと納税」制度自体に反対です。しかし、この返礼品を不要とするこのような寄付のみ本来の「ふるさと納税」と見なし、住民税の控除の対象とすることができるのなら、このかぎりにおいて、制度が存続してもかまわないのではないか・・・・・・、などとひそかに考えています。
*1:私は、「ふるさと納税」制度を使った住民を特定し、この住民に対してのみ、その納税額に応じて、たとえば「自治体の施設の利用を認めない」「ゴミを収集しない」「子どもが公立の小学校や中学校に入学するのを拒否する(あるいは授業料を徴収する)」「マイナンバーカードを発行しない」などの制限を段階的に講じてもよいと思っています。しかし、これは技術的にも制度的にも困難であるに違いありません。
*2:念のために言うなら、私は、「ふるさと納税」制度を使う者がすべて当の地域に無関心であると言いたいわけではありません。