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怠惰の徳について

by 清水真木

 私たちの社会は、勤勉を徳と見なします。当然、勤勉に対立するものとしての怠惰は悪徳であると普通には考えられています。

 しかし、私自身は、怠惰であることは、それ自体としては必ずしも悪いことではないと考えています。

 よく知られているように、人間は、産業革命以降、生活環境の内部におけるさまざまな変化により、それ以前とは比較にならないほど勤勉になりました。時間観が変化したからであるかも知れませんし、日光に恵まれない状況のもとでも働くことができるようになったからであると考えることもできます。

 時間を効率的に使用して生産性を上げることの価値があらかじめ認められていたのでなければ、いわゆる「科学的管理法」なるものが20世紀初めに1つの「方法」として開発され、これが広い範囲で受け容れられることなどなかったに違いありません。

 それどころか、21世紀には、生産性を限界まで向上させるため、使うことができるすべての時間と体力を、最大限に効率的に使用することに価値を認める風土、いわゆる”hustle culture”がアメリカおよびその影響のもとにある地域の労働空間において支配的になっているように見えます。

 しかし、時間と体力のすべてを、何らかの意味における生産に対し、考えうるかぎりもっとも効率的に投入することは、私たちの人生のすべての部分を、他の何かを実現するための単なる手段とすることに他なりません。古代ギリシア以来、私たちの人生の幸福は、自足、つまり、それ自体が目的であるようなことに沈潜することと考えられてきました。”hustle culture”とは、幸福のよりどころとなりうるものを私たち1人ひとりの人生から徹底的に排除することへの欲求であり、私自身の目には、集団的な強迫性障害と映ります。

 私たちの人生を幸福にするために大切なことは、効率を限界まで追求することではなく、むしろ、時間を費やすに値することを他から明確に区別する能力と習慣であるに違いありません。

 そして、この観点から眺めるなら、ごく普通の意味において生産的であることを目指す人間、つまり、短時間で大量の仕事を処理することを理想とする人間とは、時間を費やすに値することを他から区別する能力において劣った人間であり、反対に、怠け者とは、両者の違いについて敏感な存在、十分な時間をかけるに値することを、それ以外から直観的に——いわば「本能的」に——区別し、十分な時間をかけるに値しないことを忌避する存在であると言うことができます。やりたくないことを目の前にして怠け者が「面倒くさい」と言うのは、時間をかけるに値しない理由を適切に説明することが困難だから、あるいは、説明することがそれ自体としてすでに「面倒くさい」からです。

 現代の社会において幸福であるためには怠惰でなければなりません。そして、怠惰であるとは、自分の幸福を脅かす可能性があるものを視界から素早く排除する習慣を身につけていることに他なりません。

 「怠け者」の生存のうちに認められる怠惰という性向は、このかぎりにおいて、徳と見なされるべきものであり、決して悪徳ではないのです。

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