誰かから何かを語りかけられるとき、この内容をどのように受け止めるべきであるのか。具体的には、私は、私に向かって語られた言葉を正しく理解しているのか、また、私は、その表面的な意味をそのまま——つまり、額面どおりに——受け取ってかまわないのか。これまでの人生において、私は、この問題にたえず悩まされてきました。というのも、誰かから話しかけられると、その瞬間に、相手の発言の「ウラの意味」を反射的に探し始めるのが習い性になっていたからです。
しかし、最近、私は、この問題について考えるのをやめました。少なくとも、「ウラの意味」を探さないよう心がけています。
誰かが私に向かって語りかけるとき、言葉にウラがあるという可能性を想定することは、相手を不当に支配しようとすることであり、したがって、相手に対し失礼であるように思われたからであり、また、あるかどうかわからない「ウラの意味」を必死で探すことは、精神衛生の面でも好ましくないことが明らかだったからです。(「ウラの意味」がないかどうか確認するため、遠回しにあれこれ質問することもありました。今にして思えば、ずいぶんバカなことを長期間にわたって続けていたものです。)
今では、私は、誰かが私に向かって投げかける言葉を、私が掌握しているかぎりにおける文脈の内部において額面どおりに受け取るよう心がけています。そして、額面どおりに受け取ることが困難な言葉を投げかけてくるような相手からは距離をとることにしています。
ところで、他人の言葉を額面どおりに受け取ってかまわないかどうか、という問いとともに、私は、上に掲げた問いにも悩まされてきました。
他人の言葉の受け止め方というのは普遍的な問題であり、誰の心にも一度は浮かんだことがあるはずです。これに反し、「他人の話をどこまで記憶しているべきか」は、誰もが必ず出会う問題というわけではないかも知れません、この問題に頭を悩ませたことがある人が他にいるのかどうか、また、いるとしたら、全体として多数派であるのか、それとも、少数派であるのか、私にはわかりません。
最近まで、「他人の話をどこまで記憶しているべきか」という問いに対する私の答えは、「全部」でした。
厄介なのは、仕事上の意見や依頼の類ではなく、非常に親しいわけではない知り合い、しかし、できることなら良好な関係を維持したいと考える知り合いとの雑談のような非定型的な場面における会話の内容です。というのも、私の理解では、その発言の内容に個人情報が含まれているときには、これらはすべて記憶しておかなければならないものだったからです。
- 次に同じ相手と話すとき、相手は、特定の個人情報を私が持っていることを会話の前提とするはずである、したがって、
- 私の方がこれを忘れ、同じようなことを質問したり、見当外れなことを口にしたりすることは、個人情報を開陳してくれた相手への礼儀に反する、さらに、
- 私の手持ちの個人情報を活用して、相手に寄り添うような話題を私の方から持ち出すことにより、相手を喜ばせることができるかも知れない。
私は、他人との会話、特に雑談について、このような——今から振り返ると不思議な——理屈にもとづいて他人と向き合っていました。
けれども、(雑談が成立するのは、共通の話題があるからであるとしても、)実際には、相手の個人情報が私の興味を一切惹かないことがあります。それでも、上の1.2.3.にもとづくかぎり、興味がないからと言って聞き流すことは許されません。
そこで、放っておけば忘れてしまうような些細な情報を次の会話まで保持するため、場合によっては、誕生日、食物アレルギー、これまで住んだ場所、両親の職業、日課としていること、仕事に関する愚痴の内容などをメモをとる——もちろん、相手の前でメモをとるわけには行きませんから、会話のあと、できるかぎり速やかに——ことにしていました。
しかし、最近、少し冷静になって状況を反省することにより、次の3つのことがわかりました。
- どのような個人情報を私に開陳したのか、肝心の相手の方が必ずしも全部は憶えていないことが多い、また、
- 「次の会話」までに長い時間が経過すると、アップデートされない個人情報は役に立たなくなる、さらに、
- 蓄積された個人情報にもとづき、相手に寄り添うような話題を提供しても、あまり喜ばれないどころか、不審に思われる場合すらある。(つまり、気味悪がられるということです。)
私は、最近になってようやく、これらの平凡な事実に気づき、相手が私に話してくれたことを全部憶えておく努力を放棄しました。そして、大変に気がラクになりました。
今では、耳にしたときに私の興味を惹かないことは、聞き流して忘れてしまう場合がありますが、これも仕方のないことと観念しています。