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私たちが人生において出会う不幸は、大きく2つに分かたれます。すなわち、すべての不幸は、「名前を持つ不幸」であるか、「名前を持たない不幸」であるかのいずれかであると言うことができます。
もちろん、すべての不幸のあいだには、不幸であるという点において違いはありません。また、不幸の「程度」なるものに差が認められるわけでもありません。形式的に考えるなら、私たちの人生に埋め込まれた不幸には、不幸であるかぎりにおいて同じ構造が認められるはずであり、どのような不幸についても、これを克服する手段は共通でなければならないはずです。
しかし、世間において「不幸」と見なされている事実を収集、観察するなら、不幸に対する私たちの現実の態度が、その都度あらかじめ大きく2つに区分されていることがわかります。すなわち、不幸に名前がある場合と、不幸に名前がない場合において、不幸との「向き合い方」が異なるように見えるのです。
私は、「名前を持つ不幸」を次のように規定します。当の不幸について、それが事実であることが——何となくであるとしても——世間に知られており、かつ、不幸の原因、本質、影響などについて、それなりの数の人々が認識を共有しているか、あるいは、少なくとも、認識を共有すべきであるという合意が社会の広い範囲においてあらかじめ形成されているとき、その不幸には名前があると考えることができます。(全7回の2に続く)